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 盤を境に向かい合う 見えないはずの天才棋士 私には 笑顔で駒を指し進める彼の姿が ハッキリ見えていたように思う。  姿無き盤の向こうの天才棋士との対局は 今まで対局してきた どの相手からも得られなかった感覚を 私に与えてくれた。 彼の指す一手に込める想い その複雑さは眩暈(めまい)がするほどの意味を持ち どこまで先読みを試みようが 極限と思えるほどに深読みを凝らしてみようが 最後の一手を迎えるその時まで気が休まらない そんなスリリングな緊張感を与えてくれた。  いつの間にか 忘れ去ってしまっていた その感覚の中に 童心に返ったが如く ただ無邪気に ただ必死に あるいは(はた)から見れば我武者羅(がむしゃら)に 一手に熱く(たぎ)る事ができた。  やがて夢のような対局の時間は終わり 周囲の静寂に ハっと我に返ると 私から勝ちを(さら)い 部室を出ようとする〝彼〟の後姿。 〝彼〟は 部室の出入り口前で立ち止まり 『またね』と微笑み  そのまま ゆっくり部室の外へ消えていった。
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