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土曜日。10時。よく眠れた、時間を気にせず長く眠れるのは最高だな。俺は起きたらまずコーヒーを入れる。朝にコーヒーがないと1日が始まらないタイプ。
1週間分溜まった洗濯をかけ、コーヒーを片手にいつも見ない、見る時間もないテレビをつける。1週間話題だったニュース、なんてまとめてやってくれる朝の情報番組は俺にとってなかなか有り難い。
コーヒーを飲み終わったら、ベランダで一服。そしてちょうどいいタイミングで洗濯が終わりそのままベランダで干す。ああ、ボールペンのインクがワイシャツについてる…なんて気づいてしまうが見て見ぬ振りだ。
俺のマンションは単身赴任向けの1K、2階に住んでいる。駅からまっすぐ伸びた道路沿いに面しており、ベランダからは車や歩く人々がちらほら常に見えている。
そんな中、ふと昨日の彼を思い出す。
夜勤の彼は、もう仕事をあがって今頃寝ているだろう。そう思いつつも歩く人々の中に彼がいないかをなんとなく思い浮かべて見てしまう。
イケメン君はバイトなのか、大学生なのか。
たしか制服に名札が付いてたような気はするが…全く記憶にない。
いやいやいや…何を考えているんだ俺は。
ただ昨日の夜少し会話した客と店員だ。何を……こんなに意識してるというのだ。
俺は部屋に戻り好きな読書を始める。
今読んでるのは有名なミステリー作家の新作。フィクションならではのミステリーやファンタジーが好きで中学の頃から自称読書家だ。この新作は読み始めて間もなく、まだまだ序盤。どうなるのか楽しみで序盤というのはとても読み応えがある。
いつも通り、気づけば昼を過ぎていた。
序盤を読み終わり、盛り上がったところで一息、昼飯にする。大抵土日は節約と、コンビニ飯自粛のために自炊をするのだが、とはいえたいしたものは作れない。冷凍のうどんにネギと卵で食べる。職は細い方だと思う。
昔はサッカーを部活でやっていたが、膝を壊してしまい高校2年で部活を辞めた。始めたのも中学からで、理由はなんとなく。体を動かすのは嫌いじゃなかったし、部活仲間でワイワイするのが楽しかったという理由だった。高校もその延長で始めたが、怪我を理由に辞める時も自分的にはすんなり。スタメンだったこともあり、顧問や仲間からは引き止められたが、早めの受験に備えてといえばちょうど良く、引き下がることができた。
小説で良くある、マネージャーとの恋だとかそんなのは一切なく、辞めた後に恋愛でもしようかな、と心の中では少し思ったけれども、現実はそこまで甘くはなくて。俺の性格的に好きな人ができたらお付き合いを始めたいタイプだったみたいで。結局高校では特に話題になるようなことはなかったな。
昼を食べて一服し、お昼寝。
怒涛の平日を過ごすサラリーマンにとって何より寝ることは幸せだと思う。家でだらだらする休日は幸せだ。
夜は大体飲みに行く。
友達と疎遠になってはいるが、1人で飲みに行き始めてからそこにいる常連とは少し仲が良くなってきた。同世代がたくさんいるかと言われれば少ないが、そこのマスターがいい人で年齢関係なくカウンターにいる客を巻き込んで賑やかな時を作っている。
最初に飲みにいった時は少し緊張したがおかげで1人でカウンターに座っても結局誰かと話してる感じで、居心地が良く俺のお気に入りの時間だ。
19時ごろ、俺はその店の暖簾を潜った。
いらっしゃい!マスターの声に出迎えられ、こんばんは。と一言。お、今日はカウンターの角空いてる。俺はタバコを吸うので角がお気に入り。吸う客が結構多いけど、吸わない客も多いので、一応気を使って角の壁に向けて息を吐く。いつもの?と聞かれ、それに答える。決まって最初はビールだ。
こじんまりとした飲み屋だが、マスターの人の良さに惹かれてなのか、カウンターの8席くらいは満席になるこの店。テーブル席は2つしかなく、全体で20席にも満たないが、いつも繁盛してると思う。
ピールがきたところで、近くの人がグラスを差し出してきた。お疲れ様です、と乾杯する。
すでに飲んでたその人は常連の赤塚さん。俺と同じ東京でサラリーマンをしてる35歳独身。かっこいいと思う見た目だが、お酒が回ると少し幼くなるところが面白い。彼は仕事の後もよくきているそうで、週4ペースとのこと。
赤塚さんは先にマスターと話していたそうで、俺はこっそり聞き入る。昨日飲みにきた後、帰ったら財布が無かった話をしている。まさか、またか、と思い俺はクスっと笑う。そう、彼はおっちょこちょいにもなる。悪い表現をすれば、酒でダメになる奴だ。
話を振られ、俺は財布を無くしたことはないですと答える。いやいや、無くす方が世の中的には少ないんじゃ?と思って聞くが、マスターも2回ほど経験があるという。無くした後の対処の仕方で盛り上がるこの大人達、こういう何気ない会話が楽しくて俺の癒しだ。
2時間ほど酒と会話を楽しみ、店を後にした。
酒は目立って強くはないが、あまり酔っ払って変わるタイプでもない。程よく気持ちがいいところで、帰り道コンビニが見えてきた。
土日は寄ることがないが、タバコはいくらあっても良い。そんな言い訳を勝手に唱えながら、足はそのままコンビニへ。
いらっしゃいませーと語尾が伸びた声が届く。
…違う。彼じゃない。
いやだから何意識してるんだ。頭を横に振り思念を払い、俺はレジへと向かう。
21時を回ったくらいだ、昨日と違い客は他にもいて、レジを待つ人が2人。俺は帰ろうかとも思ったが、まあいいか、と3人目として後に続く。
その時、次のお客さまこちらへどうぞ。と、もう一つのレジが開いた。あれ、この声。と思い顔を上げると彼がいた。あの店員だ。そしてすぐ顔を下げる。
名前も知らない店員なのに、声で気付いてる事に自分で苦笑し、タバコを買うときに名札を見ようと決心した。ああ、彼の方に行けると良いな。俺はそのために来たんだ。
なぜかドキドキしてる気がする。芸能人のサイン会に並んでる気分だ。並んだことないけど。ああどうしよう、少し緊張すらしてる気がする。頭と心がぐるぐるしてる。
お次のお客様ーと言われ要約再び顔を上げると、彼が手を挙げていた。ぱちっと目が合う。
彼はこんばんわ、とにこやかに俺を見ていた。
こんばんわ。赤マルひとつお願いします。
…俺はいつもこんなに丁寧に頼んでただろうか。もはやなんだかよくわからない。
ふふ、いつものですね。もう昨日の吸い終わってしまったのですか?
いや、まだ全然残っているが、出先のついでに買っておこうと思いまして。
そうでしたか、えっと520円になります。
今日も会話ができている、素晴らしい展開だ。俺は1000円を渡すと、その時に決心していた名札をみる。
"吉野" 吉野くんか。
では480円のお釣りになります。
と渡され掌に置いてもらう。あれ、いつも掌で受け取っていただろうか。いつもがわからない。手が触れた、なんて気にしてしまい、もはや何がなんだか分からない。
480円を財布にしまい、今日はタバコもきちんと貰う。
ありがとうございました、またお待ちしております。と目の前にいる彼が言い、俺はまた何か言わなきゃと無意識に考え、すでにパンクしている頭で、
ありがとう吉野くん、またね。と言っていた。
何度も言うが、許してほしい。
もはや何だか分からない。
その後吉野くんが驚いた顔をしていたのなんて、後ろをむけて少し逃げるように店を出た俺には知る由もない。
これはそんな彼、吉野くんと俺、篠宮の何だか分からない気持ちから始まる恋物語、らしい。
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