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07 愛と哀
両手に溢れるほどの食糧と薔薇の花束を抱えたロベリアは、キファレス邸の大きな扉を肩で押し開けた。
「……っしょっと」
「ロベリア様!」
散歩といえどあまりにも遅いロベリアを迎えに行くべきか、しかし散歩の邪魔をするわけには……と玄関を右往左往していたゲンテが慌ててロベリアに近づき、荷物を受け取る。ロベリアがキファレス邸を発ってから二時間ほど経過している。市場までスムーズに行けば三十分程度だ。ゲンテが心配するのも無理はない。
「ごめんなさい、遅くなって」
「何事もなかったですかな!?」
「なかった……わけでもないのだけれど。楽しかったわ」
ロベリアは市場で起きたことを話した。領民に心配されたゲンテは満更でもなさそうに「まだまだ若い者には負けますまい」とガッツポーズをした。
「さてして、その薔薇はいかがしたのですかな?」
はて市場に花屋はあったかと首を傾げた。
「さっき庭に寄ったらリトに会ったの。そしたら私とゼラにって。薔薇、どうしたらいいかしら」
「あぁ、リト様でしたか! ではお部屋に飾られてはいかがですかな?」
ゼラが領民に話していた自分のこと、リトが頬を赤くして話してくれたこと、ゼラの想いがくすぐったくて薔薇を直視できない。部屋に飾っていては胸の高鳴りが煩くて寝られないだろう。
「……キッチンでもいいかしら。ゼラにも向けられた花束でもあるし」
「えぇ、構いませんよ。では花瓶を用意いたしますね」
ゲンテは物置にある花瓶を取りにキッチンを跡にした。
残されたロベリアは調理台に用意されていた材料と調理器具をじっと見つめる。記憶がある中では料理をしたことはない。令嬢たるものキッチンへ立つことは基本的にしないため当たり前であるのだが、この光景にはどこか見覚えがあった。
「レモンチーズケーキだったわよね。なんだか作れそうな気がするわ」
どこか遠くにある得体の知れない何かがロベリアの脳裏を掠めているのだ。腕まくりをしてレモンに手をつける。
「……レモンから切るのね」
作業工程はうまく言語化できないが、体が覚えているようだ。手際良くレモンを半分に切り、しっかりと果汁を絞ったあとに皮をすりおろす。
「私、パティシエの娘だったのかしら」
それならばきっと今頃お菓子の家を作っているわね、と妄想を膨らまし鼻歌を歌いながら残りのレモンに手をつける。
すると後方からガシャンと硝子が割れる音がした。ロベリアの鼻歌は勢いよく止まり、少し咽せた。振り返ると、ゲンテが硬直してロベリアを見ていた。硝子を割ったことよりも、ロベリアが料理をしていることに気をとられているようで呆然としていた。
「ゲンテ!? 怪我はない? 大丈夫?」
「はっ……! 申し訳ございません」
ロベリアの声で我に戻ったゲンテはキッチンに置いてあるホウキを手に取り、自身の動揺を隠すかのように散らばった硝子をかき集めた。
「ゲンテ、疲れているのよ。ほらほら、今日はもうお休みになって」
「……ロベリア様はどこでそのレシピを覚えたのですか?」
ゲンテが驚いている理由は令嬢がキッチンに立っているということだけではない。記憶のないロベリアが手際よく進めている姿がゲンテには信じられないようだ。
「うまく言えないんだけど、手足が勝手に動くというか……。でも分かったことがあるわ! きっと私はパティシエの娘だったのよ!」
勝ち誇った顔で再度腕を捲り上げた。ゲンテが呆気にとられ静寂となった空間はチュンチュンと小鳥の囀りが繋げてくれた。
「……ふふ、そうやもしれませんな」
手袋の裾で目尻を擦りロベリアを見上げたその表情は哀と愛が混ぜられた複雑なものだった。ロベリアは気にする様子もなく、自身の腕自慢に鼻を高くしている。
「ほらほら、あとはパティシエに任せて! あ、ケーキは取っておくから大丈夫よ!」
ゲンテは元気なパティシエに追い出され、何度もキッチンを振り返るもロベリアが手で追い払う。「何かあればすぐ呼んでくださいな」と部屋のある廊下へと消えていった。
「よしっ! 美味しいレモンチーズケーキを作るわよ!」
◆◆
一方、自称パティシエのロベリアがレモンチーズケーキを作っている頃、ゼラは領主としての仕事を果たすべくアルニタク宮殿に来ていた。
敷地内は大きく二つに分かれており、国王や領主が国の政を行う外朝、フォセカや国王などアルニタク家の者が生活をする内廷がある。
国の経済基盤ともなっているキファレス領の主だからこそ仕事は多く、宮殿に来る機会も多々ある。さらにゼラは王国の動き、特に王女フォセカの動きに警戒しているため視察も兼ねて出向いている。
「あら? ゼラじゃない?」
優しい王女様の顔をしているフォセカがゼラを見つけ、こちらへやってくる。ゼラは跪き、フォセカに払いたくもない敬意を示した。
「フォセカ様、外朝にいらっしゃるなんて珍しいですね」
国の政に無関心なフォセカが外朝にいることは珍しいことだった。たまたま用事があったのか、それともゼラを待ち伏せていたのか。恐らく後者であろう。
ゼラに近付いたフォセカは辺りを確認し、作り笑顔を捨てた。ロベリアに向けていたあの蔑んだ顔でゼラに問いかけた。
「ねぇ、ロベリアはどう? まだ生きているかしら?」
くすっと嘲笑した声はゼラにしか聞こえない。
「えぇ。すっかり婚約者気取りです」
当然、これはフォセカを欺くための嘘だ。ゼラはロベリアが婚約者気取りになってくれることを少しばかり望んでもいるのだが。それを聞いたフォセカは目を見開き勝ち誇ったように高笑いした。
「とても滑稽だわ! もっともっと首を締めるといいわ……そこから一気に地獄へ叩き落とすの……最高だわ!! 有頂天になればなるほど堕ちていく心……ふふ、ロベリアあなた最高傑作よ!」
──相変わらず可愛くねぇ女だな
ゼラは表情を変えぬまま黙っていた。相槌を入れないゼラに対し機嫌を損ねたのか、フォセカの笑い声はピタリと止んだ。
「ところでゼラ。アークリィ家との養子縁組を解消したと聞いたのだけれど? 私はそんなこと命令していないはずよ」
平坦な目を更に細め、茶色に濁る瞳でゼラを睨め付けるように見下す。勝手に行動するなと言わんばかりだ。
「これも策略の一つですよ。ロベリアの退路を断ち、逃げる場所もなく窮地に陥れた方が殺し甲斐がありますから」
フォセカが笑顔を作ったように、ゼラもまた欺いた顔をフォセカに向ける。その顔をロベリアが見ていたとすれば「胡散臭い」と一言放たれそうだ。
「ふぅん……やっぱり噂通りの殺人狂なのね。でもそれだけじゃ満ち足りないわ……最近私つまらないの」
「……と仰いますのは?」
これ以上、ロベリアに何を望むというのか。
「失ってから分かるというやつかしら? アレは最高の玩具だったわ! もっともっと楽しませてもらわなきゃ。朽ち果てるまで……骨の髄まで全てで遊んであげるわ!」
王女のこの姿を見た者は誰もが怯みそうだが、ゼラにとってフォセカの戯言など赤ん坊の我儘にしか見えない小さなものだ。王女相手といえど恐怖も何もない。この国に希望や期待など明るい未来も求めてはいない。願わくは国の崩壊だ。ゼラは余裕めいた顔でフォセカを見た。
「……何よその顔。むかつくわね!!」
この国でのフォセカは常に周りからちやほやと甘やかされ、誰しもがフォセカを可愛がっていた。しかしゼラだけはフォセカに寄り付くことはしなかった。だからこそロベリアの暗殺という汚れ仕事をフォセカから命じられたのでもあるのだが、ゼラにとっては好都合だった。この王女はゼラの本当の思惑を知らない。
「お父様に贔屓されているからって余裕ぶらないでちょうだい。私は違うわ、あなたを殺すこともできる。死にたくなければ私の言うことを聞くのね」
権力でねじ伏せようとするフォセカにそう放たれるも、この男は微動だにしない。自身の死など恐れていないのだ。ゼラは氷のように冷たく突き刺すような目をフォセカに向け、冷静な声で告げる。
「私は何時でも何処でも、目の前のモノを殺せるんですよ。……叫ぶ余裕すら与えずに」
フォセカはゼラが放つ殺意に身震いをし、よろめかないよう脚に力を入れた。その姿にゼラは口端を上げ、最後に一言付け加えた。
「もちろん、ロベリアのことですが」
二人の間に流れる不穏な空気。フォセカの腑に落ちていない顔はゼラにとって滑稽だった。
「……もういいわ、とにかくロベリアを殺すこと忘れないで。分かったらさっさと消えて」
フォセカは手を払いゼラをあしらった。自らゼラに近付いておきながら消えろなど、実にフォセカらしい。
「えぇ。では私はこれで」
フォセカの恐怖と怒りが混沌した鋭い目線を受けながら、その場を去った。
──あの女、何か企んでやがる……
腕を組み、険しい顔で歩いているゼラはより一層近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。「あれがあのゼラ・キファレスか?」と宮殿の者が小さく噂するも、今のゼラの耳には入ってこない。
──……もう俺から離れないでくれ、ロベリア。
忌々しい宮殿から一歩外へ出ると、昼下がりの温かな日差しがゼラを迎え、時折吹く冷たい風と共に、マダムたちが楽しんでいるアフタヌーンティの甘いケーキの香りがした。
「そういえばゲンテ、レモンチーズケーキ作るって言ってたな……」
フォセカの言動でいっぱいだった頭にケーキの波が押し寄せる。馬に乗り、ゲンテのような操縦で暴走車のごとく馬を帰路につかせた。
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