712人が本棚に入れています
本棚に追加
12 青い瞳
ジャミとの会話は時間を忘れさせ、あっという間に夕方になった。一般的な令嬢ならば、使用人の迎えが来てお開きとなるのだが、無銭乗車したロベリアに迎えはない。
「あら、日が落ちてきたわね……そろそろおいとまするわ」
窓から見えるプロキオン領は、一面が橙色に染まっていた。
「あら? 馬車のお迎え来たかしら?」
「いえ、今日は来な……じゃなくて。ちょうどプロキオン領とキファレス領の境にある農家で、使用人と合流することになっているの。実は、夕食をいただくことにもなっているのよ! 美味しいチーズが出来たみたいで……」
「そう! それは楽しみね!」
貴族が農家で夕食を食べるなど、おかしな話だ。白々しい嘘にジャミも気付いていただろうが、それにも訳があるのだろうと汲み取ってくれたようだ。
「ではこれで。今日は会えて嬉しかったわ!」
「えぇ、私もよ! また話しましょう。ロベリア、私は何があってもあなたの味方でいるわ、それだけは覚えておいて」
「ジャミ……」
地獄のような学園生活だったが、ジャミと会えたことだけには感謝した。
ジャミはロベリアが見えなくなるまで、大きく手を振っていた。ロベリアは一度だけ手を振り返し、キファレス領へと続く一本道を足早に進む。
「帰りのことなんてすっかり忘れて話しすぎちゃったわ……。どうしましょう」
この時間帯に荷馬車が走ることは、ほぼない。暗い夜道は足元が見えづらく馬が転倒してしまう可能性もある。運転手自身も怪我をし、報酬となる物産も台無しだ。それに領民の朝は早い。家族団欒に夕食を楽しみ、明日に備えて早く寝るだろう。
「やっぱり歩くしかないわね……。まぁあとは一本道だし、急いで帰れば夕陽が沈むまでにはキファレス領内に入れるはずよ」
領地に入ったとて、キファレス邸に到着するまでには距離がある。暗闇を歩くことには変わりないのだが、自分の住む領地ならば少しは安心できる。
──彼を愛して、自分を愛して
頭で繰り返されるジャミの言葉がより深く胸に響くのは、一日の終わりを告げる夕日の物寂しさと、ゼラから放たれた言葉に寂寞した思いが重なっているのかもしれない。
「……おまえには関係ない、なんて酷すぎるわ。私は悪くなんか……」
──俺は、お前を死んでも守る
その言葉に添えられた、真っ直ぐな瞳に返すことができなかった自分もいる。自分を棚に上げて、ゼラだけを責めることができるのであろうか。
──ゼラ様は、いかなる時もロベリア様のことだけを想っております
以前ゲンテが話してくれた、ゼラがロベリアを想う気持ち。ゼラの伝え方は不器用だが、昨夜の言葉は、その想いから出たものかもしれない。ゲンテとジャミのおかげで、ロベリアは少しだけそう思えることができた。
「……ゼラのこと、もう少しだけ信じてみようかしら。でも、許したわけではないわ!」
ゼラに歩み寄ろうと一歩踏み出したロベリア。自分に向けられる仲間たちの温かな言葉が、取り巻き役で造られた氷のような心を溶かす。
「さ、急いで帰りましょう! 今日の夕食は何かしら? 美味しいチーズが本当にあったら最高ね!」
道端で拾った落ち葉をくるくると回し、スキップをしながら一本道を帰っていった。
◆◆
プロキオン領とキファレス領の辺境には、ロベリアが予想していた頃に到着した。辺りが暗くなってゆくキファレス領地へ足を踏み入れ進んでいく。木々がなびく音、梟の声、少し堆肥臭い土の香りがロベリアを迎え入れた。
「んー! 帰ってきた感じがするわ!」
農地や牧場が広がるこの土地は、冷たい夜風を遮る大きな建物がなく、肌寒さが強くなる。
「少し寒いから、ストールでも羽織って……あら?」
普段は身に付けないためか、ストールの存在をすっかり忘れていた。どうやらジャミの家に置き忘れたようだ。
「まぁ、もう変装する必要もないものね。また今度、会う時でいいわ」
今宵は、所々に雲が広がっていた。大気の流れが早く、雲の隙間から月が見え隠れしている。時たま輝くロベリアの髪色は、まるで月を映しているかのようだ。
「さすがにゲンテも心配してるかしら。少し急ぎましょう!」
ワンピースの両端を持ち、小走りをしようとしたその時──
「んゔ!?」
何者かの右手がロベリアの口を押さえつけ、ゴツゴツした左手で、彼女の細い両手首を捕らえた。ロベリアは後方に首を傾けると、そこには舞踏会で使われるような、真っ白の仮面をつけた者がいた。顔は分からないが、その向こうにある淀んだ瞳は、アルニタク王家とその周りに沸く人間と同じだった。
──……汚らわしい。最悪ね
「キファレス領にいる金髪の女……あんたがロベリアだろ? 大人しくしてな、悪いことはしねぇ」
図太く掠れた声が、ロベリアの耳元で囁かれる。
──大人しくなんかするわけないじゃない!
ロベリアは、相手の鳩尾とびっきりの肘を見舞いした。男はロベリアを離し、涎を垂らしながらゲホゲホと咽せた。令嬢はか弱いもののはずだと困惑しているようだ。
「ふん、私を甘く見ないでちょうだい!」
その隙にロベリアは逃げた。ただ真っ直ぐに、キファレス邸のことだけを考えて走る。鼻に残る男の香りと、体に付けられた汗が気持ち悪い。
──急がなきゃ、もっと早く、早く
視界が悪くなっている一本道を、ただひたすら走るロベリア。地面から出ていた石に気づかず、盛大に転けて倒れ込んでしまった。
「いった……! なんで石なんか出てるのよ!」
顔も膝も肘もヒリヒリとする。恐らく切れてしまっているのだが、確認する余裕などない。
──なんで私が追われなきゃならないのかしら……
──それに……死んでも守るって言ったじゃない、ゼラ
少しだけ弱気になったロベリアは、ゼラの言葉と真っ直ぐな青い瞳を思い出した。
──……いいえ! こんなところでヘコたれていたら、笑われてしまうのがオチだわ!
頭に浮かんだゼラを掻き消すかのように、手についた砂を払った。そして、立ち上がろうとした、その時。
ロベリアの目の前に、手が差し伸べられた。
「大丈夫か?」
茶色の革靴に真っ白に輝く礼服。ゴールドに輝く装飾、深緑のベストからはフリルのきいた胸飾り。
垣間見えた月が照らしたのは闇のような黒髪と。
「なんて汚い瞳」
そこには、ロベリアが小さく願った、青い瞳はなかった。
最初のコメントを投稿しよう!