712人が本棚に入れています
本棚に追加
13 地獄へ堕ちろ
差し伸べられた手の袖から光が見えたと同時に、ロベリアは俊敏に一歩後ろへと下がった。男の手にはナイフが握られており、間一髪、避けることができた。
「……あなた、誰?」
「ほお……なんでナイフが出ると分かった?」
男は物珍しそうにロベリアを見た。この男も、ロベリアをか弱い令嬢だと勘違いしていたようだ。ロベリアは怯まない。ここで屈するわけにはいかないのだ。
「私をそこら辺の令嬢と一緒にしないでちょうだい! それより、あんた誰なの?」
「馬鹿だなぁ……言えると思うか?」
噛み付いてくる獲物を見て楽しんでいるのか、男はナイフをくるくると回し、口端を上下させニヤついている。この男どもに黒幕がいるのならば、それはただ一人。
『私を楽しませてちょうだい』
フォセカしかいないのだ。
──どこまで私で遊ぶ気かしら、あの女……!
「そう。でも、大方見当はついているわ。どうせ王家絡みの愚民でしょう? あなた、服に着られているもの」
痩せ細った顔に、小汚い体。どこからか盗んできたのか、服だけは一級品。その男には相応しくない代物だ。
「はは、どうだかな」
「あなた、愚かね。そんな服も着こなせないなんて」
「……おいおい嬢ちゃん、あんま生意気言ってると犯しちまうぜ?」
男はナイフを向け、ゆっくりと近づいてくる。ロベリアは逃げようとするも、先ほど彼女の肘を喰らった男が追いつき、背後からロベリアを捕まえる。
「離しなさいよ!」
「フン、兄貴に盾付くとはいい度胸じゃねぇか」
この男は、最初からロベリアを捕らえるつもりはなく、兄貴と呼ばれる貴族に扮した男を、際立たせるための囮だったようだ。
「なぁに、傷モノにはしないさ……なにせお前には価値があるからな」
「……なんですって?」
どれだけの者がロベリアを狙っているのかは分からないが、その手の界隈では恐らく高値がつけられているのだろう。さもなければ、あのゼラ・キファレスの婚約者を狙おうとする、命知らずの愚かな者はいない。ナイフがロベリアの鼻先まで近づいてくる。
──さすがに力だけでは勝てそうにないわね。でも打つ手は何かあるはずよ……
こんな状況下でも、この令嬢は屈することを知らないのだ。
「待ちなさい。どのくらい賞金がかかっているのかは知らないけれど、恐らくそれ以上のお金は出せるわよ。いい話だと思わない?」
冷静な判断で、死までのカウントダウンを遅める。
「……は?」
ロベリアを拘束していた腕が少し緩み、目の前のナイフもピタリと止まった。所詮、金が欲しいだけのゴロツキだ。
「嬢ちゃん、まやかしなら許さねぇぞ」
「いいえ、根拠ならあるわ。あなたたちは、この国の経済をご存知?」
「は? 知るかよ」
──でしょうね
ロベリアも、男どもが経済知識など持っているはずがないと分かっていたのだが、憤慨させないためにも、丁寧に取引を進めた。
「この国の資源、つまり経済基盤のほとんどはキファレス領から出ているわ。ここで私を失うと、キファレス領主はどうするかしらね?」
「つまり……なんだ。何が言いたい」
頭の悪い男どもだが、何かしら賞金に支障がでるのだろう、と汲み取ることはできたようだ。ロベリアの話を食い気味に聞いている。
「私を危ない目に遭わせた王国になんか奉納しないでしょうね。そして、国の経済基盤が崩れる。財源を失った王家は、賞金を与えるどころか……あなたたちの命を奪うわね。まぁ、私に賞金を賭けた出所は分からないけれど」
「…………」
巧妙な口話術が苦手な男どもは、言葉を詰まらせていた。
──やっぱりフォセカの仕業ね
黙る男どもを見て、王家絡みで間違いないとロベリアは確信した。
「お分かり? 最初から、あなたたちに報酬なんてないの。それもそうよね、王家が裏でこんなことをしているだなんて、知られるわけにはいかないもの。王家に私を渡した時点で、あなたたちは殺される。王家に利用されているだけよ」
利用されていたロベリアだからこそ分かる、王家の非道さ。こんな男どもにかける同情なんていらないはずなのだが、自身を重ね合わせてしまうと、少しばかり気が重くなった。
「……黙れ黙れ黙れ!! そんなのハッタリだ!」
「あら? お金欲しくないの? 無事に帰してくれれば、私は何もしないわ」
──ゼラはどうするか分からないけれど
ロベリアを王家へ渡しても、ロベリアを無事に帰しても、もう足を踏み入れてしまった以上、自分たちに待ち受ける運命は死のみだと、男どもは悟ったようだ。
「ならば、ここでお前を殺して、ゼラ・キファレスも殺す! 俺の領地にすりゃ問題ねぇだろ?」
男どもの小さな脳では、思考回路がショートしたらしい。頭脳で考えることをやめ、武力で解決しようとした。
「ゼラを殺す? あなたたちにできるわけないじゃない」
「最後までナメた口聞きやがって!」
ロベリアを捉えていた男は、さらに強くロベリアの腕を絞めた。
「……っ!」
──痛いわね! それにあんた気持ち悪いのよ!
「……にしても、よく見れば、綺麗な顔してるじゃねぇか。王家よりも、闇市に売り飛ばした方がいいかもな」
目の前の男は、ロベリアの輪郭を人差し指でそっとなぞり、舌をぐるりと舐め回した。ロベリアはビクッと肩を震わせ、一瞬目を瞑るも、奥歯を噛み締め、強く強く睨みつけた。
「その顔そそるねぇ。最期に楽しませてくれや、嬢ちゃん」
男が、ロベリアの顔から首へと手を運び、締め付けようと手を開いたその時──
「兄貴! 後ろ!」
ロベリアの背後にいた男の声と同時に、首に触れられていた男の左手が離れた。男はナイフを手放した右手で、左手首を抑え、うずくまっている。
「ぐぁあぁあぁぁあ、っああ、ぁあああ!!! 手が、手が、手が、、」
理解の追いつかないロベリアの横を、目で追えないほどの速さで何かが横切る。今度は拘束されていた腕が解け、軽くなったと同時に背後の男が叫び出した。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っっ!!!」
地獄の叫びにも似た声を出し、後ろの男は手で目を抑え地面へ倒れていた。
「何、何が起きているの!?」
次は自身に降りかかるのだろうか、見えない恐怖に足の震えが強くなる。
「ロベリア!」
雲が流れ、一本道を差した月の光。暗灰色のロングコートに付けられた、薔薇と剣の紋章が彫られた徽章が輝いた。
ロベリアが小さく願った、青い瞳が、そこにあった。
「……ゼラ」
その瞳は、見るだけで身体の温度が奪われるほどに凍ついていた。夜風が乱れさせた、濡羽色の髪。焦燥を感じさせる荒い呼吸に、熱を帯びた頬を冷やすかのように伝う汗。そして、助けられたロベリアでさえ戦慄してしまうほどの、殺気を放っていた。
ゼラはロベリアを少し強引に胸へと抱き寄せ、自身が羽織るコートでロベリアの顔を覆った。
「ちょっと、ゼラ、苦しいわ、何も見えないじゃない」
「……耳、塞いどけ」
「耳?」
「……いいから」
いつもなら「なんでよ!」と反抗するロベリアだが、赫怒した重々しい声にはできなかった。ロベリアは言われるがままに両手で耳を塞ぐ。
真っ暗に広がる視界に、かすかに響くゼラの心臓の音はとても早かった。
冬だというのに真夏のように熱を帯びたゼラの身体に触れる。駆けつけてくれた想いがじんわりと伝わってくる。
──遅いのよ、ばか……
足の震えは止まり、安堵したロベリアは、ゼラへと体を預けた。
「ありがとう、ゼラ。……今日ぐらいは言ってあげるわ」
ゼラに聞こえないように、小さく小さく呟いた。
そして、ロベリアが遮断された世界では──。
「地獄へ堕ちろ」
ゼラ・キファレスは、ケーキを切る時などよりも余程簡単に、男どもの首を跳ねた。
最初のコメントを投稿しよう!