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49 恥ずかしがり屋の野良猫
「朝ですよ、ローズ様」
「ふにゃ……あと少し……」
「はぁ……今日は旅行でしょう」
「りょこ……旅行！！！！」
寝坊したかと焦るローズが勢いよく起きると、早朝の太陽に照らされ澄んだ碧い海のような瞳が彼女の目に映った。朝にシャワーを浴びたのか石けんの香りがゼラから漂う。数秒の沈黙を経てローズはこの状況を理解した。ゼラがベッドの端から覗き込んでいる。
「ゼラ！ レディの寝込みを襲うなんてデリカシーなさすぎよ！」
「襲ってもいませんし、起きてこられない方が悪いんでしょう」
「うっ……」
ローズの絡まった髪をゼラが手櫛でそっと解く。
「き、着替えるから出て行ってちょうだい！」
「ローズ様、今日は俺の部下として振舞ってください。ローズ様のお姿を気づかれるわけにもいかないですし。男の方が何かと都合がいいので」
「ゼラの部下ってのは癪だけど……分かったわ」
「昨日ゲンテが新調してくれたこのローブ着てください。フードで顔も隠せますから」
深緑色のローブを渡され、ゼラは部屋を去った。
ふと鏡を見るとネグリジェが肩の下まではだけていた。
「……こんな姿まで見られたなんて！」
ぶつぶつと文句を言いながらも指定された服装を纏い、支度をして一階へ降りる。ゲンテが馬車内で食べる朝食を用意してくれていた。どのみちピスキウムまでは長旅になる。馬車内でゆっくり食べた方が効率が良いのだ。
「馬車は手配しておりますゆえ。お供できないのが残念ではございますが」
「ありがとう」
すでにキファレス邸の門前に停められた馬車に乗り、二人は出発した。
ローズは外の景色を見ながらニヤニヤと口が揺れている。
「浮かれてますね」
「そりゃ旅行だもの」
「旅行だとか休養だとか仰ってますけど、視察ですからね」
「分かってるわよ。それより、他国にどうやって入れるわけ？」
「俺、領主としても活躍しているんですよ。隣のローレオ領からは通行許可が出ていますし、昔から仲が良いんです」
「そっか、前は同じ国の仲間だったわね」
キファレス領地がアルニタク領へ移ったことにより、ローレオ領はピスキウム国の辺境となったわけだが、かつて身分に差があった頃から二人は仲が良かった。
「そういえば私の名前はどうするべきかしら」
「……そうですね。アルスなんてどうですか。俺が小さい頃、野良猫につけた名前です」
「なんだか素直に喜べないわね」
「いいじゃないですか、可愛かったんですよ。あぁ、威勢のいいくせに恥ずかしがり屋なところとかはローズ様そっくりかもしれません」
ローズもといアルスは複雑な気持ちを咀嚼するようにサンドウィッチを頬張った。
「にしてもキファレス領、ほんと広いわね。ジャミの家もアルニタクも北西にあるから、東側なんて来たことないわ」
「そうでしょうね。西側はワイン倉庫が多くあります。ワインの輸出はこの国の財源でもありますから、諸国にすぐ出せるように」
「あぁなるほど……キファレス邸は領地の中心にあるのよね」
「えぇ、正確に言えば少し南よりではありますが、全方位にいけるように」
一度燃えてしまったキファレス邸だが、再建も同じ場所にした。思い出深いこともそうだが、領主として動くに一番良い場所だ。
「そう……キファレス領はこんなに広いのに争いもなく穏やかね。かつていたアークリィ領なんて、お義父様の好き放題よ。領民の晴れた顔なんて見たことなかったわ」
「そりゃ養女のローズ様でさえ金としてしか見ていなかった人間ですからね」
「ゼラは私がアークリィ家にいたこと知っていたのよね」
「えぇ」
「もし……フォセカの話がなかったらどうするつもりだったの」
フォセカはローズを痛めつけるために、狂犬として嫌な噂が流れていたゼラに託した。もしゼラに非道な噂もない普通の領主であったのなら、フォセカがゼラを指名することはなかったはずだ。もしくは、ゼラを使わずに何か違う方法で痛めつけていたかもしれない。偶然がゼラにとって好都合な方向であったが、そうでなければゼラは動かなかったのか。
動かないと答えられてしまえば空しくなるだけだが、ゼラと過ごしていく中で彼を深く知りたくなったローズは疑問を投げかけた。
「領主の妻として貰い受けるつもりでしたよ。アークリィ家だけの問題なら俺はいつだって動けました。奴らは金さえあれば動きますから。ただアルニタク家が厄介だったんです。下手に動いてしまってはローズ様を救うことが一生できなくなる。それだけは避けたかった……」
「……そ、そう……」
──あれからゼラとは近くなったようで遠くなった気がするわ
──素直に答えてくれるようになったけれどそれは私が王女だから？
──……ううん、今は国のことだけを考えるの
──ピスキウム国民の幸せを
──お父様やお母様が願った幸せを
ワイン畑が広がり休眠期に入った葡萄木が並ぶ。倉庫からはほのかにワインの香りが漂い、ローズの鼻をくすぐった。馬車に揺られ、遠くを見つめていると国境の要塞が近づいてくる。ここを越えるとピスキウム国ローレオ領だ。
運転手が通行証を見せて一歩踏み入れると、ワインの香りは一気に消え、金属が焼けた匂いや鋼鉄が重なり合ったような高い音が聞こえる。ローズは窓から顔を出した。
「……なんだかキファレス領と真逆というか、商人が多いわね」
「えぇ。ローレオ領の東には鉱山がありますから、鍛冶が盛んな領地です。俺が持っているような剣、リトが庭で耕す桑、ゲンテが調理で使う包丁、まぁアスタの鞭もあるといえばありますが……そのような道具を中心としています」
ゲンテたちだけでなくキファレス領民が使用している剣や農具もローレオ領から仕入れている。アルニタクにも鍛冶を中心とした領地があるが、ローレオ領とは比べものにならないほど、土地も製品も劣っている。
「へぇ……領民も筋肉質というか体格がしっかりしている男性が多いわね」
「仕事柄、自然と体が鍛えられるのでしょう」
「にしても、ピスキウムはもっと劣悪になっていたのかと思っていたけれど、そんな感じもないわね」
ローレオ領民の顔は明るく体も飢餓のように痩せ細っている人は見当たらない。服装も清潔であるし、街も活気がある。
「アルニタク国と同じですよ。今のピスキウムはローレオ領が一番に経済を回しています。……あまり大きな声では言えませんが、今は諸国にも兵器を出しているとか」
「でもそれって大丈夫なの？ 他国に軍事力をあげているみたいなものじゃ……」
「今の国王は馬鹿ですからね。金に目がくらんでいるんでしょう。まぁローレオ領主は頭がいい。それに対抗できる武器を手元に置いた上で渡しているはずです」
ローレオ領の市場抜けると、広い庭──といっても木花が美しいガーデンのようなものではなく、鍛冶に必要な機材が方々に置かれた作業場のような庭を持つ屋敷に到着した。馬車はここでお役目終了だ。運転手に賃金を払い、彼は去って行った。
「ここは？」
「ローレオ領主の家だ、アルス」
「……」
馬車を降りた途端、一気に見下された気分になったローズは頬を少し膨らませた。ゼラは慣れたように作業場を回り、辺りを見渡した。
「ガソウ、いるか？」
「……ん？ ゼラ！ ゼラじゃないか！ 久しぶりだな！ 元気にしていたか？」
「あぁ」
ローズはその男の服から溢れ出る筋肉にぎょっとした。さすがローレオ領の主といえよう。ローズがこの地に来てから見てきた男性の中で一番に図体が良かった。男と握手しているゼラがとても小さく見えた。
「ん？ そっちのは何だ？」
「あぁ、俺の弟子みたいなもんだ。な、アルス」
──弟子ぃいい！？ 部下って言ってなかった！？
ゼラが目を細めて、にやっと笑ってローズを見ていた。
「おめー、大変なやつの下についちまったな！ がっはっは」
ガソウの太くずっしりと重い腕にローズは背中を叩かれた。
「え、あぁ……ははっ」
「ん？ ゼラの下についているわりには随分大人しいな」
「恥ずかしがり屋でフードもなかなか外さないんだよ。まぁ、俺と境遇がちょっと似ていてな。放っておけなくて」
「おまえ大変な思いしてんだな」
先程まで白い歯を見せて笑っていたガソウは目頭を指で押さえて涙していた。
──情に厚いタイプね……
「どうだ、最近のピスキウムは」
ゼラが当初の目的である視察の話題を切り込んだ。
「どうもこうもねぇよ、アキレギア王は相変わらず酒池肉林してやがる。俺たちはまだなんとか生きてこられているが、これが続きゃ亡命するしかあるめぇ」
アキレギア──偽物国王の名前だ。ピスキウムの血筋を引く者だと期待されていたが、今では国民を悩ませている。ガソウは肩を落としため息をついた。
「そんなにもひどくなっているのか」
「あぁ。噂じゃ、金を納められない領地はその領地で一番の美女を連れていかれている」
「なんですって！？」
予想外の出来事にローズは反射的にいつもの口調で返してしまった。ローズはゼラの肘鉄砲を二の腕に食らい失態を認めた。
「んあ？ アルス、女みたいな口調だな」
「あ、あぁ。祖母に育てられたみたいでな、時々こんな感じなんだ」
「そうかそうか……大変だったんだな……」
「お、おう……」
声をできる限り低くし、短い言葉で返答した。ゼラが鼻で笑う音が聞こえローズはゼラの腕に肘鉄砲をお返しした。
「俺の領地はまだ被害が出ていないが……俺の娘が危ない」
「親バカじゃないのか」
「ふざけるな！ 俺の娘は本当に可愛いんだぞ」
──このおじさんの顔から可愛い子が生まれるとは思えないけれど……
「あ、ちょうど帰ってきた。おかえり」
ガソウが声をかけた先には、彼の遺伝子を一切受け継いでいない華奢な女の子がいた。焦げ茶色の髪をまとめ、花柄の刺繍が胸に施された上品なワンピースを着ている。
「ただいまー……ってゼラくん！？」
「おう、久しぶりだな。カタリ」
彼女はカタリ・ローレオ。ガソウの一人娘で十五歳になったばかりだ。
「そちらの方は？」
「俺の弟子みたいなもんだ」
「アルスです。よろしく」
二言会話が続くと低い声を維持するのは難しい。
「……女性？」
「いや、男だ。ちょっと声が高いがな」
「なーんだ、なら大丈夫ね。ライバルが現れたかと思った」
カタリはゼラに抱きつき、猫のように自身の頬をゼラの胸になすりつけた。その光景を見たローズは瞬時に笑顔を向けたが、内心は今すぐにゼラから引き剥がしたいほどに嫉妬に溢れていた。
「おいおい、うちの娘に手出すなよ」
「出してねーよ！ ほら、カタリ、離れろ」
「やだ！ 久々にゼラくんに会えたんだもん」
「ゼラ……カタリさんとはどういったご関係で？」
ローズの笑顔はゼラには鬼のような形相に見えただろう。カタリを自身から離して近くにあった岩に座った。
「領主として間もない頃、ガソウに色々教えてもらったんだよ。その時に一緒に遊んだりしただけだ」
「私は運命だと思ってるもん」
「カタリ、ゼラも困ってるだろう」
「でもぉ～」
「すまんな、ゼラ。おまえにはローズ様がいるってのに」
──私……？
ガソウはゼラが国王の元で生活していたことを知っている。ラークスからも信頼のおけるごく一部の人間に、ガソウは入っていた。隣領地であることから、領主になったゼラの手助けをしてくれと頼まれてもいた。
「おいおい、王女様だぞ。お世話係だっただけだ」
「それでもローズ様の横にいるおまえは活き活きとしていた。なんだろうな、身分ってやつは。いや、王族をけなしているわけじゃない。ただ好きな人と結ばれないってのも悲しいじゃねぇか」
「……まぁな」
ゼラは遠くの空を見つめていた。
「……身分がなくなれば、この世は幸せになる？」
ローズは男性に近づけるように声を少し低くしてガソウに問いかけた。
「さぁな。その世界を俺は知らない。身分がなくても生きづらい世の中もあるだろうよ。機械じゃないからな、どうしても優劣は生まれるだろうよ」
「……そう」
俯くローズにガソウが背中を二回叩いた。不意に打たれて少しよろけてしまったローズだが、持ちこたえてガソウを見上げる。
「ただな、アルス。そんな生きづらい世の中でも好きな人が横にいれば頑張れるってもんよ。だからな、せめて愛だけは自由であってほしいと俺は思う」
「ガソウ、おまえそんな男だったか？」
「歳はとりたくないねぇ」
ガソウは胸のポケットから葉巻を取り出し、原始的な火打ち石でつけた火ですうっとひと蒸かしして煙を吐いた。
「……ガソウ、ありがとう。約束するわ」
「は、はい……んあ？ なんだか、アルスを見てたらラークス様を思い出してしまったな。どこか似ている」
「……は、ははははは」
二度も失態を犯したローズは笑うことしかできず、ゼラは頭を抱えてため息をついていた。
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