──美魔女調教師 アスタ・ホーマルハウト(2)

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 ──美魔女調教師 アスタ・ホーマルハウト(2)

 キッチンに近づくにつれ、アスタの元気な笑い声がキファレス邸に響いていた。ゲンテも楽しそうに話している。アスタはキファレス邸と付き合いがあったのだろうか。 「ゲンテ様、ゼラ様もいよいよですわね」 「えぇ……私は歳ですから、ゼラ様を一人置いて旅立つわけにはいきませんでしたが……ロベリア様が来てくださり本当に嬉しく……おや、噂をすれば」    入っていいものか悩んでいたが、呼ばれている以上、部屋に戻るわけにもいかない。ゲンテに呼ばれるがまま入って行った。 「おはようございます、ロベリア様」 「おはようございます……」 「んも〜! やっぱりロベリア様はお美しいわ! 先ほどお会いしたとき、あまりにも綺麗な方だから驚いたのよ!」  目を輝かせ、ロベリアをじっくり見る。 「ゼラ様も隅におけないわね!」  ねー、とゲンテに向かって同意を求める。ゲンテも深くうなずいた。「攫われたんですけど」と言い返したかったロベリアだったが二人が楽しそうなのでそのまま流した。 「ささ、ロベリア様。朝食の準備ができていますゆえ、召し上がってくださいませ」 「えぇ……」    昨日のハーブティやクッキーは、もしかしたら今日の朝食を安心させるための罠だったのかもしれない。だが、キファレス邸にいる以上、出された食事を摂らなければ飢死するだけだ。どうせ死ぬならば、美味しいもので死にたい。それに昨夜の件でゲンテに申し訳ない気持ちも多少はある。  ロベリアが葛藤していると、それに気づいたゲンテがほっほっと笑いながら説明してくれた。 「本日は、チーズパンにオニオンスープ、五種類のサラダに、サーモンのムニエルでございます。お飲み物は牛の乳をたっぷりと使ったミルクティーをご用意いたしました。無論、毒は入っておりませんぞ」 「そう……美味しそうね」    ロベリアはフォークを持ち、サラダを手にした。ベビーリーフにレタス、アボカド、トマトにオリーブオイルがかかっている。 「あぁ、にんじんはサラダから抜いてますゆえ、ロベリア様は四種類ですな」 「良かった……ってどうして!? どうして私がにんじん嫌いって知ってるの!?」 「ほっほっほ、老人を甘く見てはなりませぬぞ」  ゲンテは人差し指を立て、チッチッチッと左右に揺らした。  学園で出されていた昼食にもにんじんが入っていることが多かったが、平然とした顔で食べていた。フォセカに知れ渡ったら厄介だからだ。  今まで他言はした覚えがないのだが、ゼラならばあの手この手で調べ上げるに違いないと納得した。  いい歳にもなってにんじん嫌いとは恥ずかしかったが、できることなら絶対に口にしたくない野菜だ。この点だけはゼラに大感謝をし、サラダを口につけた。  その瞬間──  アスタはロベリアの一センチ隣をバチン!と鞭で叩いた。あまりの勢いに噛み切れていないアボカドがするんっと喉へ入っていった。 「ロベリア様、姿勢が悪いですわ! あと十度ほど体を後ろに、背筋をもっとしっかり伸ばして! あとフォークの持ち方がお上品ではないわ、指を綺麗に見せて!!」  ロベリアが振り返ると、アスタが鬼のような顔でこちらを見ていた。手には使い込まれている鞭が握られていた。 「ひっ!?」  ロベリアはゲンテに助けを求めたが、相変わらず「ほっほっほ」と笑っているだけだった。とにかく鬼教官アスタに言われるがままに、姿勢を正し、指をきれいに見せるように微調整してみた。 「そう! お美しいですわ、ロベリア様!」  もう一度振り返ると、今朝見た子犬のような顔のアスタがいた。 「ゲンテ……これは一体……」 「アスタ様の調教モードにはいりましたな」 「調教モード!?」  調教、と聞いて思い出すのはゼラ・キファレスの楽しげな顔だった。考えてみれば、ゼラが穏やかで淑やかな教育者を付けるわけがないのだ。 「アスタ様の教育は少々手厳しいところもございますが……一流のレディに仕上げてくれることでしょう。何せ、あのゼラ様も幼少期の頃受けられましたから」  もしかしてアスタが原因でゼラは容赦ない人間に育ったのではないか、とも思ったが今は返答せず黙っておくことにした。  一度でも角度を越えてしまわないようにゆっくりと背筋を後ろへ倒し、そおっとサラダを置いた。  次にサーモンのムニエルを口に入れようとした瞬間、またバチン!と鞭が飛んできた。口より先に手が出るタイプなのだろう。 「お口が大きすぎますわ! レディたるもの、口は最小限に! ただし、口周りを汚さぬよう、包み込むように丁寧にお召し上がりになって!!!」 「はっ、はい……!」  急に始まったスパルタにしどろもどろしながらも、アスタの言うように動く。 「あぁ、ロベリア様、そう、そうですわ! お美しいですわ……伏せられる睫毛も艶やかで……そこおぉおおお!!!」    三発目の鞭が入った。どうやら今度はミルクティの飲み方が優雅ではないらしい。 「貴婦人の午後の昼下がりのように、ベランダで鳥のさえずりと川のせせらぎを聴いているような雰囲気でお飲みになって!!!」  細かすぎる気もするが、ロベリアにとってこの調教は序の口だ。取り巻き教育は過酷なもので、数日同じ部屋に閉ざされ、悪態を題材とした物語を延々と見せられたり、王女を引き立たせるために残酷なセリフを叩きつけられたりもした。  それに比べたら、今回は自身が綺麗になっていく。それに鞭は怖いものの、アスタからは愛情が感じられる。  それから何度も側に鞭が飛んできたが、なんとか朝食を完食できた。 「ごちそうさま。それにしてもアスタ、すごい変わりようね」 「あら、そうですか? でもロベリア様は基礎が整っていらっしゃるわ! 私が申し出るところは少なかったですもの、とっても素敵でしたわ」  果たしてそうなのだろうか。ロベリアは小さく首をかしげた。 「そう……?」 「えぇ! さ、ロベリア様。次は異国語のお勉強ですわよ」  顔の横で両手を合わせご満悦なアスタ。こう見ると、本当に可愛らしくお淑やかな女性なのだが──、彼女が独身な理由はここにあるのかもしれない。 ◆◆  夕日が昇る頃、この家の当主ゼラが帰ってきた。ゼラは家にいることがほとんどなく、領地へ出たり王国へ行ったり何かと忙しく動いている。 「ゼラ様、おかえりなさいませ」 「あぁ、ただいま。……ロベリアはどうだ?」 「えぇ、しっかりと励んでおられますぞ。そろそろ終える時間ですかな」 「……そうか、なら少しここで待っていよう」  薄墨色に金色の刺繍が施されたロングコートを椅子にかけた。領主ならばコートに紋章が掘られた装飾品が一つや二つ付いていそうだが、王国に支配されているような煩わしさから外している。ゼラはゲンテが用意してくれた紅茶をゆっくりと飲む。 「今日はいかがでしたかな」 「フォセカ王女の動きはまだない。……だが、かつて隣国の王女だったロ──」  遠くから聞こえる足音にゼラは口を閉じた。ゲンテには聞こえていない。いや、ゼラの耳が良すぎるのだ。誰しもが気づくことは難しい足音が次第に近づき、ゲンテにもようやく聞こえた。 「あら、ゼラ。早いのね。仕事はしているのかしら?」 「お前よりはな」  ロベリアの方を振り向きもせず、さらっと受け流す。その態度に顔がひきつるも反論はせず、ゼラより一番遠い席に座り態度で示した。 「ふふっ、ゼラ様おかえりなさいませ」 「あぁ。アスタ、初日ご苦労。どうだ? そのじゃじゃ馬は?」 「もー、ゼラ様、奥様に向かってそのようなお口を!」  ヒュン、とゼラの横に鞭が飛んだ。かつてのスパルタ教育を思い出したのだろうか、滅多に表情を変えないゼラの顔も少し凍りついた。もしかしたら、ゼラに唯一勝てる人間なのかもしれないとロベリアはアスタを味方につけようと心に決めた。 「ロベリア様は誰もが羨む素敵なレディになりますわ! ゼラ様、絶対に手放してはいけませんよ!」 「アスタがそこまで褒めるなんてな。やっぱおまえ、図太いな」 「ちょっと!」  ふざけないでよ、なんて言葉はゼラのはにかんだ笑顔にかき消されてしまった。楽しそうなゼラを見たアスタとゲンテは優しく微笑んでいた。その雰囲気に、両腕を組み頬を膨らますことしかできなかったロベリアなのだった。
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