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――大切な人(2)
「小麦粉と卵とバター……場所はここを真っ直ぐに行くのね」
キファレス邸の前にある林を抜けると、小麦やブドウ畑、牛や鶏がいる牧場が広がっていた。さすが国ほとんどの財源を占めている領地なだけある。
今は静まりかえった木々たちも、暖かい季節になれば葉が生い茂り、花は彩をなし、この地は緑に覆われるのだろう。
冷たい風がロベリアの頬をかすめる。
「やっぱりアークリィ領より冷えるわね」
攫われた日はゲンテが馬車を爆走させたこともあり、ロベリアはあまり距離を感じなかったのだが、キファレス領は王都より大分離れた国境付近に位置している。それに風を遮るような建物がなく、より一層肌寒さを感じさせた。
「でも、なんだか……温かい景色ね」
方々から村人の笑い声、子供達がはしゃぐ姿、川のせせらぎに鳥のさえずり。静寂な景色からは寒さを感じなかった。ロベリアは辺りを見渡しながら、ゲンテに教えられた道を進んでいく。
「おや? 失礼ですが、あなたロベリア様ではありませんかな?」
少し腰の曲がった老人が土耕の手を止め声をかける。老人の服は土で汚れているものの、決してみすぼらしいものではなかった。ロベリアがアークリィ家で支給された古着の方がよっぽどだ。
「え、えぇ。……ごめんなさい、どちらかでお会いしたかしら?」
キファレス領に来てから、ロベリアはキファレス邸内以外の者とは一切会っていない。アークリィ家に住んでいたときも学園との行き来がほとんどであり、もしこの老人と会ったというのであれば記憶喪失になる前の話になる。
「いやいや。ゼラ様よりお話を聞いていますゆえ」
「ゼラが? あなたはゼラと親しいの?」
「いえ、私だけではありません。ゼラ様は領民みんなの顔と名前を覚えてくださっています! 毎日顔を出してくださいますし、収穫の時期になると手伝ってくださるんですよ」
あのゼラが、と衝撃が走ったが、ここは冷静に問いを続けた。
「そ、そう。……ところでゼラは私のことをなんて言っていたのかしら?」
ゼラにどう思われていようが構わないと思っていたのだが、なんだか嫌われているのは胸が痛む。数日間でゼラの本性が少しだけ分かったからだろうか。
老人は穏やかな微笑みをロベリアに向け、ゼラが告げた言葉を教えてくれた。
──キファレス邸に、ロベリアという女性がきた。まだ不慣れなところが多いが、みんな仲良くしてやってくれ。
──俺の大切な人だ。
ロベリアはぎゅっと胸元を掴む。第三者から自分のことを聞くと、とても恥ずかしくて、もどかしい気持ちになった。それに今までは他人から入ってくる自分の噂なんて良いものは一つもなかった。
フォセカ様の生活に憧れた貧しくて下品で横暴な女。
記憶喪失で心も失ったヒト。
いつも王女様の周りをとりまいている、アレ。
けれど今はそうではない。たとえゼラの言葉が領民までも欺く嘘だったとしても、ロベリアは少しだけ信じてみたくなったのだ。
「そう、なのね」
「えぇ。ゼラ様はご自身のことを話されることはほとんどありませんので……領民は皆安心しました」
「……皆!?」
この村の団結力は強い。特に噂好きのマダムの耳に入れば、一夜で広まってしまう。
「おじいちゃーん!」
遠くからお弁当箱を持った男の子が駆け足で向かってくる。
「おぉ、ミント!」
「はいよ、おばあちゃんから!」
ミントと呼ばれた十歳くらいの男の子はロベリアの姿に気がつく。
「おねぇさん、だあれ?」
「私、ロベリアと申しますわ」
怖がれないように、不慣れな笑顔を作り出して小さく挨拶をした。
「あ! ゼラ様のお嫁様だ!」
ロベリアに向けてビシッと指を向け、目を輝かせながら楽しそうに話しかける。隣にいたおじいさんは「コラッ!」と腕をしまわせ、頭を下げさせた。
「構わないわ。ミントくんもゼラとお話するの?」
「うん! お話もするし、剣も教えてくれる!」
無邪気な笑顔に偽りはない。本当にゼラのことが好きなのだろう。
「僕、ゼラ様みたいに強くなりたいんだ! みんなを守る!」
ゼラは貴族ながらにして剣の腕前は王国一とも言われているが、王国の騎士団とてゼラに剣の教えを乞うものなどいない。それもそのはず、その裏には殺戮者との噂があるからだ。
しかしどうだろうか。この少年の目は輝き、憧れている。ロベリアが耳にしていたゼラ・キファレスは一体何だったのだろうか。
「ふふ、頑張ってね。では、私はこれで失礼するわ」
ロベリアは小さく手を振り、この先にある市場へと進んだ。
商店が並ぶ小さな市場は、昼食を買いに来たマダムたちで賑わっていた。ロベリアが一歩足を踏み入れると、マダムたちは一斉にロベリアを見た。そして闘牛のごとく一直線に向かってきた。
「ロベリア様ではございませんか!?」
「そうよ、この高貴なブロンドヘアに宝石のように輝く瞳、麗しい香り……!」
「今日はお一人なのですか!?」
次々に飛び交う質問に目眩がしそうだったが、ロベリアは丁寧に挨拶をした。
「えぇ。初めまして、ロベリアでございます」
ワンピースの端を持ち上げ、淑やかに会釈をする。その姿だけにも「きれいだわ!」「女神様よ!」とマダムたちの歓声があがる。アスタの教育のおかげかもしれない。
「ゼラ様も隅におけないわねぇ」
「ホントよねぇ。……ところでロベリア様、今日はどうしてここに?」
令嬢が市場へ出向くことはまずない。マダムたちも不思議がるのは当然だ。
「小麦粉、卵、バターを買いに来ましたの」
その瞬間、マダムたちだけでなく露店の店主たちも騒つく。何かおかしなことでも言ったのだろうかとロベリアは首をかしげた。
「もしかしてゲンテ様はご病気か何かで!?」
「大変、私お手伝いに行きますわ!」
「ロベリア様、この店のものは何でも持って行ってくだせぇ!」
あれやこれやと騒ぎ出す。なかなか口を挟めずにいると、いつの間にか手には小麦粉、卵、バター、そしてリンゴにバナナなどフルーツの盛り合わせもあった。
「あ、あの……! 違うんです! 私がお手伝いしたくって! ゲンテは元気ですし、私も散歩のついでですから!」
騒ついていた空間が一瞬鎮まりかえったが、皆安堵した声を漏らしていた。
「すみません、私たちったら早とちりで……」
「いえ! とても……嬉しかったです。このお礼はいつか」
「とんでもない! いつもゼラ様には助けられているもの。むしろ私たちがお返しすべきだわ」
そうだそうだ、と皆が深くうなずく。
「本当にそうだわ! この国でまともな領地はキファレス領と隣のプロキオン領ぐらいなものよ」
このマダムが言うように、この国貧富の差は激しく大抵の領地では領民が貧しい生活をしている。ロベリアの養父であったランジが支配するアークリィ領もそうだった。
仕事は領民任せな上に、出来上がった産物は安値で搾取していた。さらにロベリアを金儲けのためだけに養女にいれたような輩だ。領民の姿は領主の本性を暴く鏡とも言えよう。ゼラの支配するキファレス家は領民を大切にしている。そして領民からも愛されている。
「ありがとう、ゼラに伝えておきますわね」
手荷物が多くなったロベリアを気遣い「家まで手伝う」と申し出た領民もいたが、これ以上に尽くしてもらうのはやはり気が引けてしまう。丁重に断り市場を後にした。
「案外いい奴じゃない」
ゼラから時折感じられる優しさは本物かもしれない。領民がこんなにも温かいのだから。ロベリアは少しだけゼラのことを知れた気がした。
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