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念のためにヴァイオリン裏を確認する。大抵年代物のオールド・ヴァイオリンには裏板駒下部とその左下に焼いた針などでつけられたマークが存在する。が、やはりそんなマークはなかった。
思い違いか、と言う気持ちを抱えながら最終的に調整が終わったのは
それから十分後だ。
調弦が終わって、それをウィンドウケースに仕舞い入れ厳重な鍵を掛けているときだった。
「さすが紫藤先輩♪ねぇ、先輩って
“あの”紫藤 響ですよね」
ふいに
一通りの作業をにこにこ見ていた女性社員に上目遣いで聞かれて
僕は商品に触れる際に着用する右手の白い手袋を取り外している最中だったが、
ギクリ、として思わずその手が止まる。
「“あの”ってなんだい?ほかにも居るのかな」
平静を装って再び手袋を外しに掛かる。
この店に勤めるのは、それなりにリスクがあった。だけれど今まで何とかその質問に合わずに済んできたのは単に運が良かっただけだからか。
でも、それは―――予想もできないタイミングで突如現れる。
「二十年ほど前から、天才ヴァイオリニスト少年って騒がれてましたよね
紫藤 響」
僕が否定も肯定もしていないのに、彼女はうっとりと手を合わせてぺらぺらと喋る。
「あたし、紫藤先輩に憧れて音大入ったんです。でもあたしはやっぱり凡人だったみたいで、紫藤先輩のようにはなれなかったけれど。
まさか就職した先で憧れの人に出会えるなんて♪」
「人違いだよ。僕はただのアンティークショップの店員だし、名前が一緒なのは偶然、同姓同名なだけだ。
残念だったね」
僕はにこやかに笑みを返して、手袋をスーツに仕舞いいれると、
「それじゃ、お疲れ様」
短く挨拶をして、その場を離れた。
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