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老人の何も映していない目は、やはり死後硬直が始まっているのだろう、白目に走った血管に色はほとんどなく、しかし瞼を下ろすのも一苦労。
「ドラマや映画ではあんなに簡単に目を閉じさせることができるのにね」と彼女が皮肉ると
「事実は小説より奇なりって言うじゃない」と彼女と同じように、女が老人の不自然に曲がった口元の筋肉をほぐしながら元に戻そうと悪戦苦闘していた。
作業がひと段落して最後に老人が着ていたパジャマの皺を伸ばしほんの少し整え、老人の手を胸の上ら辺で組ませた。少々わざとらしいかしら。と彼女は思った。しようの無いことだった。
『自然死』とは無縁な世界で生きてきたのだ。むろん彼女の周りに常に『変死』の死人が居たことはない。
ただ、死人を目にしたことがなかったのだ。
死体の偽装を終えたところで、次の段階を踏むべく手段に出た。
「ねぇ、この部屋から出てオーディオを切って自分の部屋でヴァイオリンを弾いて」
「え?」
彼女の発言に女が不思議そうに目をまばたき
「アリバイ工作だよ。今あんたがここに居るのは得策じゃないわ。言ったでしょう?私があんたを守るって。大丈夫、あんた以外だったらオーディオの音と生の音を聞き分けられるわけがない。今まであんたがずっと演奏してたって思ってる筈だよ」と言うと、女は大きく頷いた。
「あ、通路から出ないで。バルコニーから。繋がってるでしょう?あんたの部屋に」
これじゃアリバイ工作も何もない気がした。いくらでもバルコニーから伝ってこの部屋に侵入できると言うことを示してもいるのだ。
だから次の一手を用意する。
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