黒い兎

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 父は我の強い人だった。そして、酒は飲んでも飲まれるなという言葉から、一番遠いところを生きていた。  お酒を飲んでは、気が大きくなって暴れ回った。喧嘩なんかはしょっちゅうで、何度警察に迎えに行ったか分からない。母はそう言っていた。  DV(ドメスティック・バイオレンス)という言葉は、父の為に存在している言葉だと私は思う。  飽きもせず、しょっちゅう母に手をあげていた。気に入らないことがあると母を殴り、殴ったことを反省して謝り倒す。数日もすれば、そんなことなどすっかり忘れ、酒を飲み、また殴る。殴っては謝り、また殴る。少しも成長しない人だった。  父が母を殴る時。私は二つ年下の妹を連れ、決まって隣の部屋に逃げこんだ。物陰から二人の姿を見つめている時、私の心臓はあらぬ力で鳴っていた。涙は不思議と出なかった。ピンと張り詰めた空気の中で、この時間が早く終わりを迎えることを、ただただ神様に祈っていた。  怖いと言って泣く妹を震える手で抱きしめながら「大丈夫だよ」と何度も繰り返し言って聞かせた。自分でも何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったけれど、5歳の私にできることは、それくらいしかありはしなかった。  いつだったか、父に殴られた母は、私と妹の手を取り家の外に逃げ出した。私たちはまだ幼い子どもで、足もそれほど早くなかった。  結局、母は私たちの手を離し、一人でどこかへ走って行った。母の背中はあっという間に見えなくなって、置いていかれたのだと漠然と思っていた。  私と妹は、父と手を繋ぎ家に帰った。  母がいなくても、朝は来る。父は朝ごはんにホットケーキを焼いてくれた。私たちを喜ばせたかったのだろう。幼いながらも、父の必死さは理解できた。  ホットケーキミックスと卵と牛乳を混ぜて焼くだけなのに、どういうわけか、父の作ったホットケーキは美味しいとは言えない代物だった。 「美味しいかい?」  と、問われ 「うん。美味しいよ」  と、答えた。  あの時、私は——誰かを傷つけない為に嘘をつかなければいけないこともある。そう知ったのだ。  まもなく、父と母は離婚した。私と妹は母に引き取られ、父とはそれっきり会うことはなかった。  
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