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もちっとした食感にくるみの歯ごたえがなんとも言えない。食欲が刺激されてよだれがあふれてきた。
「うまい! そういや僕、夕飯まだだったんだ」
「じゃあ、一個まるまる食べちまえよ。冷めると食感が少し変わるし、味わいも変わる。それも味わって欲しいし、いくつか持って帰れよ」
「一個いくらだったっけ」
記事に書いたのは1/4の値段とホールの値段だった。財布を取り出そうとすると止められた。
「再会の記念だ。要らないよ」
「それじゃ申し訳ないよ。試食分は取材の経費で落ちるから、領収書だしてくれないか?」
ホール2個分の代金を取り出した。
押川はお金を握る山井の手を抑えた。山井はブルりと身を震わせた。
ひやりとした手だった。
ジッと見上げると、はにかむような笑顔で押川は首を横に振った。
「さっきも言ったろ、取材のために焼いたんじゃない。僕は友人と再会するから焼いたんだ。一旦家に帰って、自宅の材料を取ってきたんだ。店の経費じゃないんだ。シン、昔から、くるみパン、好きだよな…」
覚えてた。嬉しかった。
「でも、オーブンのガス代とか、電気代とかかかってるじゃないか」
「それは取材費もらうから」
「たった千円だよ?」
「十分だよ」
結局、帰り際にはパンを3つ袋に詰められて渡された。
時計を見ると終電はギリギリ間に合いそうもなかった。
「タクシー呼ぼうか?」
「ん~、大丈夫。ここからなら、まあ、歩いて帰れるよ」
スマホのアプリで検索すると所要一時間半と表示されていた。
「…、近いの?」
いつも使っている駅を伝えると困ったように呻いた。
「一時間以上かかると思うよ、ちょっと待ってろ、着替えて戸締りするから」
店の前に出されて、押川は店の入り口のカギをかけて奥へと消えていった。
待たずに歩き出してしまおうかと思っていると、雨が降ってきた。
弱い雨だったが、歩きは無理だと言われた気がした。
静かだった。
押川の店は駅から20分ある住宅街のはずれの交差点で、駅側の反対側には喫茶店、もう一方は和菓子屋、はす向かいは花屋。どの店も真っ暗だ。住宅街も街灯が道を照らしているだけ。車通りもない。
駅へ向かってタクシーを捕まえるべきかもしれない。
歩き出そうとしたところに、バイクがきた。
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