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警視庁へ入り、扉を開けたヘルツ警部は部屋に入るよりも先に部屋を出ようとしていた相手ともろにぶつかった。スーツのボタンがこれまたもろにヘルツ警部の鼻に当たり、ヘルツ警部は呻きながら座り込んで鼻を抑えた。見ると窃盗課で同僚のアマデウス・ブロンがこちらを全く見ずに走って行くのを見た。
「ヘルツ警部、おはようございます。……大丈夫ですか?」
上からヒューゲルの声が聞こえた。ヘルツ警部はバツが悪くなって立ち上がった。
「ブロンの奴、いつもはぶつかって無視するような奴では無いんだが」
「ディースターヴェーク宝石店の事件に進展が無いから苛々しているんですよ」とヒューゲルが肩を竦めた。
ディースターヴェーク宝石店の強盗事件は三月のウィーン社交界での大きな立ち位置を示している。何しろウィーンの中心地を貫くケルントナー通りに位置する高級宝飾店が白昼堂々と襲われたのだ。彼らは店に火をつけ、その混乱に乗じて宝石を避難させた店員を殺害し、宝石と装飾品を奪って逃走した。奪われた宝石の中にはあの紅玉髄の再来とまで呼ばれた大きなルビーを使ったアクセサリーも含まれていた。あれが世界統一を成し遂げることはどうでも良いが白昼堂々、ホーフブルク宮殿のお膝元で放火と強盗が発生したことはウィーン警察の多大な失態だ。その失態を贖おうとウィーン警察の全体がこの事件に躍起になっているが、一週間経った今も手がかり一つ掴むことも出来ないままだ。
「素人の犯行では絶対に無い。反帝国派の貴族や実業家たちがその窃盗団の後ろ盾にいるのかもしれない」
「もしかしてハンガリーやイタリアの貴族たちがまた反乱の機会を……?」
「彼らは確かにハプスブルク家に反感は抱いているが、宝石店を襲うなど聞いたことが無い」
「そうですよね……」とヒューゲルが肩を落とした。「そうだ、警部。来て早々なんですが、ヨーゼフシュタットで殺人事件がありました。殺されたのは浮浪者なのですが、首を刺されて……他の刑事は皆、ディースターヴェーク宝石店で手が空かず、一昨日まで別の事件にかかりっきりだった警部とわたしだけしか手が空いていないそうで……警部には役不足だけど行って欲しいと警視監が」
ヘルツ警察はため息をついた。「ヒューゲル、殺人事件に力不足も役不足も無い。死は死だ。どちらも由々しき事態だぞ」
ヘルツ警部はそう言うとヒューゲルに手荷物と帽子を預けると無害な筈の浮浪者を殺害し、治安を乱した何者かに対する嫌悪を覚えて厳しい表情を浮かべた。
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