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放課後の一年生の教室は、各バンドの練習部屋となっていた。瑞山高校軽音楽部は、部員数約五十、バンド数約十五に対して防音設備のある部屋は、部室と視聴覚室の二つ。各バンドがそこを使える日は、週に一度、二時間と決まっている。そのほかの日は、空き教室での自主練が主となる。先輩たちの中には外部のスタジオを借りるバンドもあるが、一年生の一学期にそういった高等テクニックは解禁されていないのが暗黙のルール。
空き教室での自主練は、アンプやドラムセットといった備品が使えないため、各自自前の楽器で楽譜をさらったり、ボイストレーニングや小さな音での合わせを行う。雑談をするだけで終わっているバンドも多い。
しかし、
「ダメよ、ボイトレは毎日しなきゃ」
という真面目な沙由紀の方針で、阿鳥は日々、基礎トレーニングに励んでいた。
沙由紀は当然のごとく、キーボードを持参して付き合ってくれている。
「あとりんの声は天性の響きを持ってるんだから。低音から高音まで同じように綺麗に伸びる人はなかなかいないのよ。これで音程を正確に取れるようになれば、鬼に金棒でしょう」
とのことで、今日も厳しい指導が入る。
鈴屋沙由紀と親しい仲になったきっかけは、出席番号が並びだったことだ。
そうでなければ一生お近づきになることなどかなわなかっただろう。
それぐらい、彼女は高貴なお方なのである。
入学式。
『続いて、新入生代表挨拶。鈴屋沙由紀』
ギリギリの成績で合格し、この瑞山高校に入学した阿鳥にとっては、もちろん関係のない話だった。眠気を押し殺し、挨拶ができる限り簡潔であることを期待していた。
けれども次の瞬間、寝ぼけ眼は覚醒することとなった。
「はいっ」
という清廉な声が体育館に響いた。紛れもなく、自分のすぐ隣から。
パイプ椅子からすっと立ち上がった隣の少女を、思わずまじまじと見上げてしまった。彼女の姿を目にしたのは、それが最初だった。
大和撫子とはかくいう女性のことを指すのだと思う。
流れる川の如き漆黒の髪が傍らを通り過ぎたとき、かすかに良い香りがした。
優しげなその瞳はまっすぐ前を見据え、揺らぐことなく颯爽と壇上に向かう。桜色の唇は真一文字に結ばれ、緊張していることが伺える。しかし長い手足は、緊張を感じさせない隙のない所作を見せる。小柄だがスタイルの良さが際立つ。
挨拶はほんの一瞬で、彼女の声をもっと聞いていたいと思い始めた頃には既に終わっていた。
その後の式のことはあまり覚えていない。ただ務めを終えた鈴屋沙由紀は、隣の席に戻ってきて息をつき、心無しか先程よりリラックスした様子を見せていた。
一度だけ視線を感じたような気がする。見過ぎていたのがバレたかな、と阿鳥は顔を熱くした。あとはもう、自分の心臓が跳ねるうるさい音を聞いているだけだった。
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