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宮名木さんの庭を出た時刻は七時を回っていた。初夏の明日香村の夜は、暗く、空が高く、風が涼しい。歩いている人はほとんどおらず、たびたび車の通る大きな道沿いを、まっすぐ歩いて帰る。田畑の広がる開けた土地に、遠くに黒い山並みが連なり、どこまでも行けそうな気持ちになる。
宮名木さんからの阿鳥を家まで送るようにという指令を、生形は快く引き受けてくれた。幽霊騒動があってからの阿鳥は、闇にも孤独にも、以前より苦手意識が芽生えていたため、これは素直に有り難く思った。
道すがらの会話は大した内容ではない。バスケ部であること、通学に一時間半かけていることなど、わりとどうでもいい生形の個人情報が主に語られた。男子高校生の中でも彼はかなりフレンドリーな部類に入るだろう。三十分ほどの帰り道だったが、沈黙に窮するということはなかった。それでも宮名木さんの仲介なしには少なからず遠慮があり、阿鳥は大人しく聞き役に回っていた。
けれどもう家まで数十メートルのところまで来たところで、急に立ち止まって話しかけてきた。
「取り引きをしよう、蘇芳さん」
「へぁ?」
不意に呼ばれて、阿鳥は間の抜けた声で返す。
「タダで助けてやると思ったら大間違いだぜ」
しかたなしに足を止め、ぽかんとして背の高い彼を見上げ、阿鳥は瞬きを繰り返す。強い印象を与える太い眉と、ぎらついた目に見下ろされると、少し萎縮してしまう。
「俺は全力でお前の前世特定に付き合ってやる。その代わり、対価を求める」
「そ、それは……」
金か、体か……望みはなんだ。くそっ、だからこういうチャラい奴は信用ならないんだ。(偏見)
「アンタ、軽音楽部だろ」
生形の視線は、阿鳥の手に握られたギターケースに注がれていた。
「あ……はい、そうですが」
それで何となく察しがついた。こいつの目的は、自分ではないらしい。
「さーちゃんは渡さないよ」
入学当初から、こういう不届き者は多いのだ。沙由紀狙いで軽音に入部する男子もいるほど。今のところ沙由紀にまったくその気がなく、全員お断りしているけれど。
阿鳥は今日いちばんの真剣さで生形を睨む。しかし生形は、
「鈴屋沙由紀のこと?」
と、さほど興味を示さなかった。新入生代表だし、美人だし、ということで一応名前は知ってはいるようだったが。やれやれとばかりに首を振ると、
「そうじゃない。八組の、軽音の、七五三野さんだよ」
聞き馴染みのない名前を出されて、一緒戸惑う。けれどさすがに、少し考えれば思い当たる人物がひとりいた。
「ん?……ああ、めのこか!」
「お近づきになりたいんだが、接点がなくてね」
ラッキーなのかアンラッキーなのか、どちらにせよ阿鳥と関わりの深い人物ではある。
だけどもしかしたら、まだ沙由紀狙いのほうがマシだったかもしれない。
「生形くんって……ロリコンなの?」
「なんでやねん」
曲者揃いの前世探訪、果たして上手くいくのだろうか……。
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