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第2話 長谷川綾 その1
△ △ △
「……だからさあ、ホントむかつくんだよね、榎田センセ」
「ああ、たしかになあ」
僕は優花のグチ話に適当に相づちをうちながら、ストローで氷をかき回す。もうすっかり溶け始めたレモンティーの氷は、カサカサとコップの中で音を立てた。
榎田先生のグチはもう分かったから、などと言えば優花はムッと口をとがらすだろう。元はと言えば榎田先生を怒らすようなことをした優花が悪いとは思うのだけれど、そんなことまで言ったが最後、僕が悪者になることは火を見るよりも明らかだった。
優花と付き合い始めてもうすぐ一年半。別に悪い子ではなかったし、友達に言われるまでもなく結構な美少女だったし、僕にはもったいない彼女だと思っていた。ただ、割と有名な会社の経営者一族の娘で、多少気が強くてわがままなところがあった。
デートは必ず優花の行きたいところに連れて行かされ、友達に見られても恥ずかしくない格好で来いと言われていた。大学選びについても同じで、「都内の一流大学の推薦枠を取らなきゃダメ、彼氏として恥ずかしいでしょ」などと、僕の母親よりも辛辣なことを僕に言っている。せっかく国立理系のクラスに入ったのに、いまさら推薦で私立に行くのは馬鹿馬鹿しいと僕は思う。ところが優花にしてみると、早々に推薦で大学を決めてもらって自慢をしたいという。まったく困ったというか、なんというか。
そんなことを思いながら、僕は優花の話を適当に聞いていた。怒られないように相づちをうったり、今日のグチは長いな、と多少ウンザリしつつ。
塾帰りに寄ったファストフード店の外の景色はすっかり夜の気配だ。店内の時計を見るともう十時前、外を歩いているサラリーマンも帰宅を急いでいる様子だった。
――そろそろ出ようか
そんな言葉を優花に掛けようとしたとき、外の舗道を見慣れた制服の女の子が通った。目の前にいる優花と同じブレザーの制服。つまり僕たちと同じ高校の生徒だった。
――あれ、長谷川?
僕はその顔に見覚えがあった。それは同じクラスの長谷川綾はせがわあやの横顔だった。
長谷川綾はどこか大人びた女の子で、クラスの中ではある意味孤高の存在。目の前の優花がポニーテールでいかにも女子高生らしくよく喋る女の子なのに対して、長谷川は肩から少し長いくらいの黒髪であまり喋らない女子生徒。二重の切れ長の目をした大人っぽい顔立ちと、あまり感情を顕わにしないその表情は、高校三年にしては雰囲気が落ち着いていた。
長谷川と僕は二年の時からクラスが同じになった。一年の頃はもう少し喋って明るい子だったらしいけれど、二年に上がる頃に両親が離婚したとかで、そこから今のようにちょっとクールになったという。ただし本当に美人な女の子なので男子生徒の中には憧れているヤツも多くて、何人かは実際に告白したらしい。けれど、いまのところ全員が冷たく振られている様子で、長谷川綾は難攻不落だと呼ばれていた。
その長谷川が外を歩いている。
それ自体は不思議なことではないけれど、歩いてきた方向が不思議だ。公園に面したこのファストフード店は駅へと向かう人も見えれば、駅から帰る人も店内から見える。ところが長谷川はその公園の向こう側から来たような気がしたのだ。
長谷川がやって来た公園の向こう側に何があるかというと、実際のところ割と何も無い。この辺にしては珍しく閑散とした住宅地が広がっていて高校の方角とも全然違う。いったい長谷川はどこから来たのかな、と、そんなことを考えていた時だった。
「俊しゅん? ねえ俊! もう、ちょっと、高橋俊たかはししゅん!!」
「あ、ごめん。なに?」
「もう!」
優花はたまに僕の名前をフルネームで呼ぶ。だいたいそういう時は怒っているのだ。
「全然私の話を聞いてないんだから!」
「いや、ごめん。もう十時になるし、そろそろ出ようかって言おうと思ってたんだ」
それは半分は本当のことだったし、とくに嘘をついた訳でもない。それに外を長谷川綾が通ったような気がするなんて、言わなくてもいいことは言う必要が無い。長谷川綾の名前を出すだけであらぬ誤解を産むに決まっている。
「あ、ホントだもう十時前……」
優花がピンク色の可愛い腕時計を見て時間を確かめる。
「だろ、送ってくよ。塾帰りだっていっても、十時過ぎには帰らないと怒られるんじゃなかったっけ」
僕はカバンをとって出口へと向かう。当然のように返却用のトレイを運ぶのも僕の仕事。
優花と店を出た僕は何気なく駅の方を振り向いた。駅のほうへと歩いて行った長谷川が見えるかなと思ったのだけれど、もうそこには彼女は歩いていなかった。
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