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第9話 文化祭の準備 その2
△
――「うわー、なにこれ可愛い!」
教室に段ボールを持って入ると、ワラワラとクラスメイトが集まってきた。金魚を見た女子生徒たちから黄色い歓声があがる。長谷川がこういう歓声をあげるところは想像できないけれど、だいたい普通の女子高生は「可愛い!」などというリアクションをとるものなのだろう。当の長谷川はといえば金魚の箱を持って階段を昇ったのが多少堪えたのか、椅子に座って紙パックのジュースを飲んでいた。
「粕谷、金魚を入れておくタライみたいなのはどれ?」
金魚に群がる女子生徒を放っておいて、僕は粕谷に聞いた。粕谷が言うには、セメントを練るような四角いトロ箱だかトロ舟だかいうものが用具倉庫にあるらしい。それをきれいに洗って金魚を入れるつもりだそうだ。用具倉庫は体育館脇のプレハブ小屋で、カギは職員室にあるという。
「え~、洗って使うの? それに結構遠いじゃん……」
「しょうがないだろ、新しいトロ舟を買う予算が無かったんだよ。それに金魚すくいのためだけに新品買うのって無駄だしさ」
考えてみれば粕谷の言うことは正しい。用具倉庫に現品があるのに、たった一日の金魚すくいのために新品を買う必要は無い。
僕は少しため息をついて教室を出た。するとなぜか長谷川綾もついてくる。
「いいよ長谷川、プラスチックの箱くらい一人で持てるし」
僕は振り返ってそう言った。ところが長谷川は長谷川で小さくため息をつく。
「あそこにいても私の仕事無いし」
「ああ、まあ確かに……」
教室の中でのおおまかな飾り付けは済んでいた。今している作業は駄菓子を並べたりパターゴルフやダーツの準備など、それぞれの役割に分かれてしているので、いまさら長谷川の入る場所が無いといえば無い。
二階の一番端にある職員室まで行ってカギを借り、引き返して反対側の渡り廊下から体育館へと進む。各教室では文化祭の準備が進んでいて、校内はそれなりに華やかだ。演劇の最終確認をしているところや、ホットケーキを焼いているいい匂い、それからキャーキャー言いながらお化け屋敷を作っている教室。だいたいこういう行事は準備をしている時が一番楽しいのかもしれないと感じる。
渡り廊下に出ると外のグラウンドが見えた。この時間までには体育祭の後片付けはほとんど終わっていて、いまは最後のテントをたたんでいるところだった。準備は昨日の昼から放課後までかかったのに、後片付けは一時間程度で終わってしまう。明日の今頃は文化祭も終わりかけかと思うと、ちょっと寂しい気もする。
「これだよな、トロ舟って」
「たぶんね」
プレハブの用具倉庫を開けると、奥の方に青いプラスチックの物体が目に入った。なんとなく縁日とかで見たことのある、底が浅くて平べったいプラスチック容器。広さは大体畳一枚分くらいか。それは確かに僕も見たことのある、建築現場で職人さんがセメントを練る箱そのものだった。
立てかけてあったトロ舟を持ってみると予想通りの重量。軽くはないけれど一人で持てる。一年以上使っていないだろうと思われるトロ舟は薄汚れていて、軍手を持ってくれば良かったと後悔をした。
「汚れるから、長谷川よけて」
僕は長谷川綾を遠ざけてトロ舟を用具倉庫から外に出した。日光の下にさらしてみると、思っていた以上に中が汚れている。これじゃあ粕谷が洗えというのも頷けるけれど、正直に言うと新しいものを買って欲しかった。しょうがないので渡り廊下の中央にある洗い場まで持って行き、ホースで水をかけて綺麗にする。隣をみると、長谷川はどこから持ってきたのか木製のデッキブラシを持って立っていた。
「おっ、いいもの持ってるじゃん。デッキブラシどこにあったの?」
「用具倉庫の目の前にあったけど?」
いったいお前はどこを見ていたんだと言わんばかりに、長谷川は呆れた顔をする。
「え? マジで」
ばつが悪くなった僕は、デッキブラシを受け取りながら長谷川から視線を外した。
ホースでジャブジャブと水をかけながら、デッキブラシでゴシゴシとトロ舟を洗う。だいたい三分も洗えばトロ舟の中も外も小綺麗になった。最後にもう一回水をかけるともう金魚を入れても大丈夫なように見える。
「こんなもんだよな?」
「いいと思うよ」
長谷川はトロ舟の中を手で触って汚れを確認した。なんだかんだ言って真面目に確認するところを見ると、やる気があるのか無いのかよくわからないヤツだと思う。
長谷川のチェックも終わったトロ舟を両手に持ち、僕は二度三度と大きく振って水気を飛ばす。すると思いかけず、近くにいた長谷川にもかなりの水滴が飛んでしまったようだ。
「ちょ、ちょっと何すんの! 高橋くん、バカじゃないの!?」
何があっても冷静沈着だと思っていた長谷川綾が、後ろに飛び退きながら声を出した。黄色い歓声とは言いがたいけれど、普段では絶対に聞けないハイトーンの声。
「ごめんごめん、そっちにも飛ぶとは思わなかったからさ」
「もう! 高橋くんて意外とガサツじゃない? カノジョの前でもそうなの?」
「いや、なんでここで……」
なんでここで優花の話が出てくるのかがわからない。けれど、ちょっと自分を振り返って考えてみる。優花の前ではこんな感じで水を切っただろうか、いや違う。違うというのは、恐らく優花の場合だったらアレコレと優花の方が僕に指示を出したと思うのだ。僕は奥さんの尻に敷かれた旦那のようにデッキブラシでトロ舟を洗ったことだろう。そして水を切るときにも「離れて振れ」だの、「雑巾で拭け」だのと言われたんじゃないかと想像する。
そんなふうに考え込んでしまった僕に悪いと思ったのか、顔についた水滴を手の甲で拭った長谷川が小さな声で言う。
「ごめん……高橋くん、言い過ぎた」
「いやべつに気にしなくていいよ。多分優花の前だったらしてないっていうか、尻に敷かれた旦那みたいに『雑巾で拭け』って言われてるからさ」
「ハハ……、なんだかそれ想像出来る。さっきの借り物競走だってそんな感じだった。っていうことはアレでしょ? いつだったっけ、マクドナルドで見せたあの表情。あれ、ホントはうんざりしてたんでしょ」
「ああ、うん、まあね」
それは夜に長谷川を見かけた日のことを言っているのだと、すぐに分かった。
「つまらない話だったら、つまらないって言えばいいのに」
長谷川は優花が聞いていたら怒り出しそうなことを平然と言う。
「言えるかよ」
「ふーん」
そう言って興味も無くなったように長谷川はクルリと背を向け、校舎へと向かう。僕はもう一度軽くトロ舟を振ってから長谷川のあとに続いた。
渡り廊下から校舎へと入る短い階段のところで、急に長谷川が立ち止まってこちらを向く。いつもと同じちょっと冷めた表情のなかに、少しだけ寂しそうな気配を感じたのは気のせいだろうか。
「ねえ高橋くん。明日さあ、有原さんが来たら、私消えておくから」
「え?」
そんなことを唐突に言われた僕は、その意味を一瞬で理解が出来なかった。
「だから、どうせ有原さんはウチのクラスに遊びに来るんでしょ? その時に私は金魚すくいのところから消えておくから心配しないでってこと!」
「べつに気をつかってもらわなくていいよ」
「違うって! 私が居づらいだけ。わかった?」
それだけ言うと、長谷川綾はプイッと向こうをむいて歩き始めた。「居づらい」とか言いながらも本当は僕に気をつかっているのだろうなと、そんなことは僕にも想像がついた。
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でもそんな長谷川と僕の思いもむなしく、結局翌日の文化祭、優花が来たときに長谷川は金魚すくいの店番から離れられなかった。
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