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逆さの町。僕の町。最後に雨が降ったのはいつだろう。
天から落ちてくるのは鮮やかな水色の雨。丸くてころころしている。
それが降るのは三分間。きっちり、寸分違わず。
雨には君の声が閉じ込められている。
雨粒は僕にあたると、弾けて、優しい君の声を届けてくれる。
幸せだ。
だけど、それはたった三分間。
浴びるように君の声を聴きたい。
だから、僕は今日もやまない雨に焦がれるのだ。
*
生まれて初めて聞いたのは君の声だった。
僕の町は簡単に天地がひっくり返る。
僕の町が地にある時、丸い雫がこの町に降り注ぐ。
雨と共に君の声が落ちてくる。
君の言葉はあまりに詩的で、僕には意味が分からなかった。
だけど、その日は少し違った。
『私の町は小さな町。青い海に沈む愛らしい町。そして、私は最高に可愛い』
僕はぽかんとした。最後の一文、誰かのしたり顔が浮かんだ。
それが妙におかしくて、僕は笑ってしまった。
町を浸していた雫が僕の笑い声を含んだ。
天地がひっくり返る。僕の町は逆さになる。
雨がやみ、町から水が引いた。
しばらくして、降ってきたのは驚いた声。
『誰かいるの?』
「いるよ」
僕は見えない君に返事をした。
そのうち、僕は雨に声を乗せる方法を覚えた。
雨粒にふっ、と声を吹き込むのだ。壊れないように、そっと。
といいながらも、慣れれば簡単だ。
僕は君とたくさんの話をした。
時にカフェのメニューを読み上げ、時に一組の恋人たちの一生を語った。
僕らに与えられるのは三分間。
限りある時間の中で僕らは何百回も、おそらく、何千回も話をした。
君の柔らかな口調、混ざる笑い声。それを浴びるのが大好きだった。
僕は泡に囁く。君の楽しそうな声が聴きたくて、必死になって探した言葉を。
楽しかった。それには必ず返事があると信じていたから。
愚かしくも輝かしい日々。今ではとても懐かしい。
雨の降らない町で僕は目を閉じる。
もう一度だけでいい。君の声を聴き、僕の声を届けたい。
ふっと、地面が傾いた。久々の感覚。天地が入れ替わるのだ。
そして、雨が降る。
天から降り落ちるは雫。君の声がのった美しい雨。
『元気ですか?』
ありきたりな言葉ですら、僕の心を強く震わせた。
君の声を全身で受け止める。
知らない声色が降ってくる。震えて、濡れている。
泣いているのかい?
『あなたの声が聴きたい』
僕も君の声が聴きたかったよ。
『私の声を聴いて』
聴いているよ。
『あなたに触れたい』
僕は目を見開き、そして、笑った。
それだけは、どうしてもできないんだよ。
三分。君の言葉は途切れた。
僕は沈んだ町で、雨粒に君への思いを詰め込む。
愛してる、愛してる、愛してる。
たとえもう一度、君に言葉を運べたとしても、たった三分。
この溢れる思いを伝えきることなんてできない。
ガラス越しに外を見つめる。先程から雨はやまない。
羨ましくてならないのだ。
やまない雨を降らせて、君に全て伝えたい。
やまない雨のような、君の全てを浴びたい。
でも、それは叶わないから、僕は三分間の雨にありったけの愛を詰め込んだ。
*
「気に入ったかい?」
店主の声で私は我に返った。
すっかり常連になってしまったアンティークショップ。
初老の店主はもう私に敬語も使わない。どうやら孫娘くらいの歳らしい。
外は雷鳴が鳴るほどの雨。
雨宿りついでに寄った私も随分気安い。
私は尋ねる。
「これは?」
「水時計さ。ほら、砂時計ってあるだろう?あれの変わり種」
「へぇ」
私はもう一度、目の前の水時計を見やる。
三角錐を二つ繋げたような、まさに、これぞ砂時計といった形。
真ん中のくびれから、ぽとり、ぽとり、とスライムのような水色の雫が落ちている。
気になるのは、上下それぞれにミニチュアの町と人形が入っていること。ヨーロッパを思わせる町。
片方には赤い服を着た人形。片方には青い服を着た人形。
水色の雫は雨のように人形の頭にぽつりと落ち、町を浸していく。
「この水時計、残酷ですね」
「どうして?」
店主は首をかしげる。
「だって、この子達にしたら、町は沈没するわ、脳天に水かけられるわ、災難でしかないじゃないですか」
店主は声を上げて笑う。そして、優しい目で言った。
「よーく、見てなさい」
彼は水時計を逆さに向けた。
底にたまっていた雫が落ちる。
青い服を着た子の世界から赤い服を着た子の世界へ。
水色が一粒一粒、世界へ降り立つ。その雫は輝いている。
まるで誰かの涙のように。
「え」
思わず声を上げる。
赤い服を着た子が笑った。
人形が笑うなんて怖い。
だけど、その子の顔は喜びに満ちていて、それでいて、ひどく切なくて―。
私は瞬く間にその世界に引き込まれた。
胸の奥が静かに痛む。
「お買い得だよ」
店主がちゃっかりと声をかけてくる。台無しだ。
私は水時計をカウンターに持って行き、値段交渉に移る。
見せられた電卓。まあ、妥当だろう。
店主は言う。
「確か、測れるのは三分だよ。カップ麺にでも使ったら?」
「なんてロマンのない」
その場ではそう言ったものの、残念ながらその水時計は今日もこうやってカップ麺ができるまでの時間を測っている。
私は天地をひっくり返し、水時計を眺める。
赤い子の世界から青い子の世界へ雫が落ちていく。
今日もその子たちは幸せそうで、それでいて、どこか寂しそうで。
そんな三分間を見つめて私はほうっと息をつく。
そして、訳もなく、また水時計をひっくり返した。
雫が赤の子に降り落ちる。
この子は何を思うのか。
私は妄想にふけりながら麺をすすった。
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