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「最近、キレイになった?」
そう今野洋二に言われて私、板野梓はドキッとした。20代後半。もう若いとは言えない年齢で、頬のハリや皺やシミが気になってくる年頃。美容に普段よりもお金をかけるようになってから、二ヶ月後のことであった。
口コミで優秀だと言われているスキンケア用品を買い集め、大人ニキビの特効薬も買った。継続は力なり、成果は出ていた。今野に褒められるのは素直に嬉しい。
「何々、恋でもしてんの? かーっ、羨ましいなー異性の多い職場はさ」
騒がしい居酒屋でのことで、周りの喧騒に紛れこちらの会話は周囲には伝わっていない。それが幸運なことなのか不幸なことなのかは私には分からなかった。出来るなら、私は今野の恋人のように見えて欲しかったから。
今野は高校の同級生で、卒業して大学に入ってからは交流というものはなかった。また会うようになったのは大学生の頃に成人式を迎えた時。同窓会でたまたま隣の席になった今野は、昔と変わらずお調子者でみんなのムードメーカーだった。
私の苗字である板野と今野、名前の似ている二人は『ダブルのの』としてセットで漫才コンビ、みたいな扱いが高校生の頃の主流だった。なので皆懐かしがってまた何かボケとツッコミやってよ、と囃し立てられ、なんやかんやと酒を飲んでいるうちに連絡先を交換していた。
それからぼんやりしながら私は会場を後にした。ちなみに終電で自宅に帰ったので一夜の間違いはない。私は今野との再会を噛み締めて、家へ帰るとバタリとベッドに倒れ込んだ。
休日の翌朝、目覚めて見慣れない携帯のLINEアカウント欄に"今野"の文字を見つけて、私は身悶えた。
そう、今野は私が淡い恋心を抱いていた相手だったからだ。
LINEを送ってみたら、返事が五分も経たずに帰って来た。CMのキャラクターのスタンプと共に、陽気な言葉が並んでいる。それを眺めて私は思わず笑った。他愛のない会話を交わして元気を貰った。そして。
「今度二人で飲まない?」
そんな誘いをかけるのに二ヶ月かかった。
「そうそう、最近職場で気になる先輩が居てさ。今度ランチでもって話になったんだけど、万全の状態で臨みたいからさ」
酔いが回りながらも口からスルスル嘘が出て来るのは子供の頃から変わらない。しかし私の虚言癖は他人を傷付けるものではなく、自分や他人を守る為のもの、場を盛り上げる為のものであると自分では思っている。そうでも思わないと自分が嫌な奴に思えて仕方がないから、という意識もあるのだが。
「そっかー、俺も早く良い嫁見つけて結婚しろって親がうるさいんだよね」
三杯目のビールを飲みながら赤らんだ顔でそんなことを言う。私はまだ素面だろうが、実際は結構酔っていた。ただ醜態を晒すまいという思いで理性を保っていた。
飲み会も佳境に入る頃合、今野は私の肩を叩いた。
「梓、夜景でも見ていかないか?」
今野が私を見つめてそう言った。今野は私のことを昔と同じように名前で呼ぶ。そのことが、恥ずかしかった。けれども嬉しかったのは本当だ。そうしてワクワクしながら居酒屋を後にして、夜景の見える丘の上、で。こんなの期待してしまうだろう。けれどその期待は裏切られた。
「実は俺、結婚することになったんだ」
現実は残酷だ。私は一人で浮かれていただけだった。今野にはもう、心に決めた人が居た。
「相手は三浦令子さんって人で、梓とは正反対なタイプかな。大人しいけど真面目な良い人だ。俺、一番に梓に報告したくて。それに梓も気になる先輩が居るって言うしさ、今後も何かしら相談し合ったりしようぜ」
最後に添えられた、梓は姉のようだった、という言葉が脳裏にこびりつく。そして結婚という単語が頭の中で木霊していた。
そんな言葉聞きたくなかった。嘘だと言って欲しかった。けれど私の口から出てくる言葉はどうしようもないものだった。
「わーおめでたい! おめでとう‼︎ 今度その人のことも紹介してよね。私も先輩と付き合えるよう頑張らなきゃなー……」
心にも無い言葉が滑り出てくる。表情の方はどうだろう? ちゃんと騙せてる?
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
私がキレイになったのは今野の為なのに。
ニキビケアも、毛穴ケアも、脱毛も、紫外線予防も、シミ対策も、全部全部全部。今野と再会して、高校生の頃は手の届かなかった関係になろうとして、空回って馬鹿みたい。私の努力は無駄になってしまったのだろうか?
淡い片想いの恋が実らず燻っていた私は、夜の公園で一人ブランコを漕ぎながら泣きそうになっていた。本当なら大声で泣き喚きたいけれども近所への醜聞という体があるので、必死に堪える。堪えても零れ落ちる涙がスカートに染みを作る。
この公園は通称トラネコ公園。出入り口の一つに置かれたトラネコの貯金箱が近所の子供たちに名付けられた所以で、正式名称は誰も知らない。特に都市伝説の舞台になる訳でもない、至って平凡な公園だ。しかし、ここで私は日常とはかけ離れたものと出会った。
「おねーさん、どうしたの?」
背後から声をかけられて私はハッと顔を上げた。振り向く。
そこには、人間離れした美貌の青年が立っていた。
シルバーの髪は月光を受けて神秘的に輝き、ネイビーの色彩を持つ瞳は吸い込まれそうな程の深みを持っていた。外国の人だろうか? 格好はワイシャツにスラックス。靴は革製。年齢は若そうだけれども、会社員と言っても通じそうな格好であった。
片手にぶら下げられたコンビニエンスストアのビニール袋だけが生活感を放っている。
「あなたは……?」
突然のことに驚きながら、むしろ彼の美しさに驚きながら、一応人間ではあるようなので尋ねた。そうしたらその考えを裏切る様な答えが返って来た。
「僕はしがない通り掛かりの死神だよ」
タチの悪いジョークを言われて眉をひそめる。酔っ払ってる訳でも無さそうであるし、からかわれただけだろうか。いくらイケメンでも年上(推定)の私を馬鹿にするのはやめて欲しいものだと憤慨する。
「おねーさん、今、生きてて楽しい?」
いきなり人生の価値を問うてきた。風にサラサラ揺れる彼の髪の毛に目を奪われていた私は、自分の感情を見透かされたかのようで、戸惑いながらも何とか返事をした。
「どうだろうね……良いことなんて無いしなぁ。それに今はとても悲しいし」
そう口にすると、つい涙が出てきた。鼻をグズグズ鳴らして堪えようとする。堪えきれずにポケットからティッシュを取り出して鼻をかみ、目元の涙を拭った。
「おねーさん、泣いてる」
「こ、これは夜風が目に染みたの‼︎」
慌てて苦しい弁解をする。大の大人が恥ずかしい、という思いが湧き出てきた。
「涙が月の光を反射して、キレイだね」
しかし私の言葉を聞いているのかいないのか、彼はそんな言葉を口にした。カァッと頬が熱くなる。そんなの、口説き文句みたいじゃないか。
「でも、私は醜いよ。自分より仕事の出来る人に嫉妬して、楽して悪いことをしてるのに言い訳ばかりで、本当に人間の底辺」
仕事でも伸び代があると褒められる同期を妬んでしまう。自分より出来る後輩に嫉妬する。そのくせ力量以上のことはやろうとしない。そして、私は自分の童顔を利用してパパ活までしている。
パパ活とは女の子が年上の男性と会ったり食事をしたりする代わりにお金を貰うということだ。もうとっくに成人済みの私は、年齢を知らせていないので上手くいっているけれども、実年齢を知った人は批判してくるだろう。そもそもパパ活自体が褒められた活動ではないが。その中でも私は最低の部類。
「お金はそんなにも醜悪なもの? 必要なものでしょう?」
至極真面目な表情で、彼はそう言い放つ。けれど続く言葉に私は愕然とした。
「現に僕はお金が無くてここで野宿して生活している」
スーパーの袋からおもむろにうまい棒めんたい味を取り出すと、彼はその包装をペリッと剥がしシャクシャク食べ始めた。
「待ってどこから突っ込めば良いのかわからないから‼︎」
イケメン、口説き文句の後に、ホームレス宣言。見たところ服は多少生活感があるが、そこまで不潔な訳ではない。けれど彼のぼんやりした、無目的な視線が帰る場所を持たない人のそれであることに気付いてしまった。
じゃあ私の家に泊まって行く? なんて、裏の仕事をしている時には軽々しく言えるけれども、何故だか私は彼と至って実直な関係を築きたかった。結果。
「このお金でネットカフェにでも泊まってきなさい。お返しは、明日の夜もまたここでお話し出来れば良いよ」
と、好意をちらつかせるフリをしてまた会う約束を取り付けた。このような点が大人になった私の浅ましい点と言える。子供の頃に憧れていた大人の女、に遠くないとは思っているけれども。理想は近くて遠い場所にある。現に私は報われない恋をして、褒められない仕事をして、生きている。
そんな日常を変える契機が、この出会いになるのかもしれないと少しだけ思った。
翌日、私はいつもより少しだけ丁寧にメイクをしてから家を出た。昼間の仕事は中小企業の事務員。いつもだってメイクに時間は掛けているけれども、今日は30分程余計に掛かった。
それもこれも死神さんがちゃんと屋根のある所で眠れたかが気になってである。会う時にはどうせ多少化粧崩れしているであろうから、化粧直しの道具一式をポーチに入れてバッグに詰め込むことも忘れなかった。
私は仕事が出来る人間ではない。だからよく上司に叱られ、後から入ったにも関わらず自分より仕事のこなせる後輩に対して劣等感を抱いている。私のその様な卑屈な点が話しかけやすいのか、後輩とはわりとよく話をする。
「先輩、今日はいつもよりメイク気合入ってますね」
「実は……」
現実にあったことをそのまま話しても信じて貰えるかどうか。それに私の虚言癖も相まって、私は年の離れた従兄弟と会うことになっているということを後輩に話していた。仕事に支障は無かったけれども、やっぱり、私は嫌な人間だなぁと思ってしまう。けれど彼に会うことを考えると心は少し軽くなった。
「死神だって言っていたけど、死神の仕事はお給料貰えないの?」
私は彼の職業をヤクザだと仮定した。およそ日常からかけ離れた職業だが、彼の言葉を文字通り受け取るよりはマシだろうとの推測。彼の見た目はその死神、というものにしっくりきてはいたのだけども。
「仕事は僕の生きる方法であって、お金を貰うものではないよ。それでも、どうにかやり繰りしてる。たまにバイトもしてみたりしてるし。でも、死神なんて良いものじゃ無いよ。おねーさんに声をかけたのは、敵組織の人間では無さそうだったから」
私は死神に殺されてしまう心配は無いということで安心すべきか。敵組織というのもヤクザらしい。
彼が自分の話をしてくれたので、何となく私も自分の話をし始めた。それは誰かに打ち明けたかった話であった。
パパ活を始めた切っ掛けはどうしても欲しいワンピースがあったからだった。薄給の身ではとても手の届かない、何十万円もするワンピース。それが欲しくて欲しくて、それを着れないのならば生きている意味も無いのではないかとまで思い詰めていた。
そんなことを友人に相談すると、パパ活アプリを勧められた。プロフィールを入力し、良さそうな相手をフォローして会う約束を取り付け、ご飯を食べるだけ。性的な行為はそこに含まれず、それだけであっという間にお金は貯まった。
私の評価もうなぎ上りだった。仕事も上手くいっていなかった中、初めて他者から承認され、私は調子に乗っていた。
そうして性行為までパパ活に含めるようになっていった。私は男を堕落させる女だったのだ。
「要するに、おねーさんは悪い大人なんだね」
子供のような舌っ足らずな声で、彼は言った。青年と形容出来るも幼さの残る顔と相まって庇護欲をそそる。そんな彼に悪いと言われて私は笑った。死神にも善悪はあるのだろうか。
自分の名前を教えると、彼は私の名前を舌先に乗せて転がせていた。それは子供が初めて親に言いつけられた言葉を繰り返しているように見えた。
「梓、僕には名前が無いんだ。マスターは僕のことをお前としか呼んでなかったから」
暫くして舌先に馴染んだ名前を呼ぶと、彼はそう告げた。マスターとは、ボスのようなものだろうか? どちらにせよ、彼にとって大事な人だったに違いない。でなければ、こんなに優しい表情で過去を語らないだろう。
「じゃあ、私が名付けようかな。……イルカ。あなたの名前。どう?」
シルバーの髪が現実でのイルカを、ネイビーの瞳がイラストによく現れるイルカの姿を思い起こさせたから。我ながら単純すぎるネーミングだけれども、彼は気に入ってくれたらしい。
「イルカ、イルカ……ははっ、変な感じ」
変と言いつつもその表情に陰は無い。青年と言うより少年に見えるはしゃぎようで、イルカはニコニコと笑った。
「梓って知ってるよ、樹木の名前でしょう。花は咲くんだっけ?」
「6月から7月に掛けて、白い花が咲くよ。私は椿の花の方が好きなんだけど、何となく梓も椿も似ている花かもしれないな」
「梓は何で椿が好きなの?」
「デュマって作家の小説を読んでから。娼婦のヒロインマルグリットは、界隈では椿姫と呼ばれていたの。物語の結末は悲恋なんだけれども、少しだけ憧れてしまったな」
私がそう言うとイルカは少しだけ悲しげにした。この身の不浄は彼も嫌悪するのだろうか。少年のような彼にとって、私は醜く汚い存在であり有害なのではないか。そんな考えが脳裏を掠める。
「……梓は、僕と居て楽しい? 答えて、お願い」
おずおずと、イルカはそう切り出した。それは私の方こそ聞きたかったことだった。
「それは……楽しい、よ」
勿論心の底から楽しいと思っているのは事実だったけれど、イルカはその言葉では満足しないといった風で、言葉を続けた。続く言葉は私の思いもよらないものだった。
「僕は梓が好きなんだ。一目惚れだった。そろそろ最後の戦いがある。それが終わったら、梓、僕と結婚してくれないかい? それが叶うならば僕の存在意義は梓だけのものだ」
私は突然のプロポーズに、戸惑いながらも頬がとても熱くなるのを感じた。こんな場面、人生で経験したことなんてない。
「私、イルカより大分年上だと思うよ?」
「死神は老いないんだ。だから、それでも良ければ僕は梓の年齢なんて気にしないよ」
恐る恐るイルカの手を取る。その手はまるで生きていないかのように冷たかった。私は自分の掌でイルカの手を包み込み、温めるようにしながら言った。
「死神と婚約なんておとぎ話みたい。でも、イルカが相手なら、それも良いかもね。私もイルカにいっぱい褒めてもらう為に、もっとキレイになるから」
きっと真っ赤になっているであろう顔で、私は彼に向かって微笑んだ。
大学生になって読んで憧れた椿姫。身売りと失恋により私の心は傷付いて、椿の花は血の赤に染まっていた。けれどその花を愛でてくれる、彼が現れた。それはとても、幸運なことだった。そしていつしか私は、自称死神の彼に新しい恋をしていた。
しかしプロポーズの日以降、イルカはぱったりトラネコ公園から居なくなってしまった。
私はイルカの心配をしながらトラネコ公園に通い続けた。死神が言う最後の戦いとは、何であったのだろうか?
彼と会えなくても私は毎日メイクをして、洗顔をして、スキンケアをしてと余念がなかった。私に出来るのはイルカと並べる程美しくなることだと思ったから。その為には、内面も変えなければならないとパパ活をすることもやめた。
しかし時が過ぎるにつれて恋しさが募るばかり、会えない日々にいよいよ辛くなってきた頃、彼は再び現れた。そうして彼が何者なのか、分かる瞬間も共にやって来た。
いつものようにトラネコ公園へ行ったら、そこには、這々の体で地面に寝転がるイルカがいた。
彼の捥げた腕を見て、目を疑う。断面からは、幾多のチューブが突き出ていた。そこから血の様なオイルの様な液体が滴り落ちている。
「ああ、梓。こんな姿でごめんね。詳しく言うと、説明してしまうと、僕は死神って言う名前の戦闘兵器なんだ。マスターはもうこの世界には居なくて、僕は一人で何をするわけでも無くここで過ごしていた」
「ただ一つ、敵組織との戦いの使命だけを持って」
「食事もそんなに必要なかったんだけど、エネルギー分は摂取しなくちゃいけなくてね。でも節約生活していたからか、強い敵組織の上位互換とは相討ちに持ち込むのがやっとだったよ。僕はここでクラッシュしちゃうのかな」「ああ、でも、最後に梓に会えて良かった」
ボロボロの身体の各所から皮膚が剥がれ機械が覗いている。アンドロイド。ヒューマノイド。所謂そういうもの。ロボットなんて三原則位しか知らない。現代の技術ではドラえもんは作れないけれども、アトムは作れると豪語していたテレビの中の科学者たちを思い出す。
混乱しながら私はその場での最善手を取ろうと必死に考えた。しかし思考は纏まらない。何しろ、好きになった人が、人間ではなかったのだ。およそ現実感に欠ける光景を前に、私は考えに考えた。
「メンテナンスしてくれる人なんて居ないのになぁ」
彼は矢張り人間ではなかった。それならば、私が恋すべき相手にはならないか? 違うだろう。人間じゃなくても、私は、彼のことが好きだ。
「知り合いに機械に詳しい人がいるから、連絡してみる」
私は機械に詳しい訳ではないし頭も悪い。けれど、私にはこんな時に頼ることの出来る相手が居た。そうして私は今野に電話した。
「もしもし、梓? どうしたこんな夜更に、子供たちは今寝たところだけど」
「今、トラネコ公園、来れる?」
「は?」
「大至急来て‼︎ 機械のメンテ道具持って!」
「事情は知らんが梓がそんな切羽詰まった様子になるなんて相当なことだな。わかった、今向かう」
「ありがとう。お代はこんど高い酒でも贈るわ」
「それは遠慮なく貰いたいところだな。よし、じゃあ妻にも急用だって伝えとくから」
「令子さんには私の名前は出さないでね、誤解されると嫌だから」
「飲み仲間の介抱に向かうとでも言っとくよ。じゃ、また」
「お願いだからなるべく急いで」
携帯電話を耳元から離し、一息つく。今野は実家が機械産業を営んでいたので、子供の頃から機械いじりが得意だった。その趣味が高じて現在は副業として片手間に機械整備を行なっている。今野なら腕は確かだ。安心できる。
「ちょっと待ってて。今、直してくれる人を呼んだから」
「僕はもうここで朽ちても後悔は無いんだけどね……梓が看取ってくれればそれでいいのに」
「イルカ、あなた時々言う冗談だか本音だか分からない言葉なんなの⁉︎」
「僕はマスター曰く実直な青年を模したアンドロイドだから嘘が苦手なのさ」
「そんなことより元通りの身体に戻ってまた、お話しようよ」
必死にイルカの身体に縋り付き、懇願する。イルカは疲れ切った様子で目もろくに開けられない様子だった。
「梓! 待たせたな……って、何だそいつは‼︎」
今野が息を乱しながら到着した。私はどうにか状況説明をした。今野はイルカの容態を確認する。
「これは難しいな……ロボットの整備経験はあるけど、こんな精巧な技術で造られたものは今まで見たことがない」
今野は不安を煽るようなことを言った後、少し目を閉じて息を吐いてから、ニヤッと逆境に立たされた時によく浮かべる笑みを作った。
「ま、俺はさらっとそれを越えて行くけどな」
そう軽口を叩くと、真剣な目になって道具を握り締めた。黙々と作業に移る。切断されたチューブを溶接し、もげた腕をくくり付け、人工皮膚を貼り付ける。鮮やかな手並みでイルカの腕は元通りに近い状態になった。
「案外損傷は腕だけだから、後は露出した部分の修復位で大丈夫だと思う。どちらかというとエネルギー不足が問題かな。電池でバッテリーの充電は出来ると思うけど、この形は……しかもここに刻まれているのは? 愛? どういう意味だ?」
今野はイルカの胸を切り開き、コアを露出させていた。イルカは目を閉じたまま動かない。ただ時折、私の名前を呟いていた。
「こいつ……梓のことが相当好きなんだな」
今野はしげしげとイルカを見つめると、こちらを振り向かずに言葉を続けた。
「梓があんまりにも美人になってるものだから、俺には釣り合わないんじゃないかなって思ってた。多分、梓が、俺の初恋だったよ。今更遅いんだけど。俺たちが一緒になる未来を考えてみたかった。でも、俺はもう令子と出会ってしまったからな」
今更何を言うのかこの男は、と呆れるような泣きたいような感情になった。私たちは両片想いだった。しかし二人とも、今は別の人のことを想っている。私にとっては今野よりイルカの方が大切だ。
イルカはまだ動かない。彼がたった今の状況を知ったらどうするのだろうな、とイルカの顔を眺めながら思った。
「問題が一つある。このバッテリーに適応する電池を俺は持っていない。そもそもエネルギー源が食事によるものだけでは明らかに足りない。で、ここで俺の推論だが……こいつは、愛で動いてたんじゃないか?」
「え?」
「何でも良いからこいつに愛情を伝えることが、こいつの回復に繋がる、との憶測だ」
露出されたイルカの心臓部に刻まれた文字は、『愛』の一文字だった。思い返すと私たちはいつの間にか愛し合っていた。イルカは私と関わるうちに色々な表情を見せるようになっていた。
最後の戦いに行くと言った後のプロポーズ。それは私の愛情が戦いへと駆り立てた為なのではないか。罪悪感が湧き出るがそれ以上に今はひたすらにイルカの回復を祈る心地だった。
「イルカ……目を覚まして」
そうして私は啄むようなキスをした。それは私の経験してきた中で一番勇気のいるキスだった。イルカの唇はアンドロイドだからか普通の人よりも幾分冷たかったけれど、それが何故か心地良く思えた。
「心臓が動き出した‼︎」
今野が快哉を叫ぶ。その声に、私は唇を離した。触れ合ったのは数秒。けれどそれで十分だった。生気の無かったイルカの頬がうっすらと色付いている。
心臓の方も赤く発光していた。そしてドクンドクンと鼓動を刻んでいる。手際良く今野は心臓部の上の皮膚を縫い付けてコアを覆っていった。私はイルカの震える睫毛を眺めていた。
「じゃ、俺はもう帰るわ。こいつが目覚めた時、真っ先に目に入るのは梓だけで良いだろう」
私は公園のベンチに座り、イルカを膝枕しながら彼が目覚めるのをひたすらに待った。
「あ、ずさ……」
「イルカ‼︎」
どれ程の時間が経っただろうか。私は彼の声を聞き、思わず涙を零した。切り貼りされたような皮膚が痛々しいけども、イルカはニッコリ笑ってみせた。
「ありがとう、梓。やっぱり梓は見かけも、中身も、どっちもキレイだ」
そうしてイルカは起き上がると、私の身体を抱きしめた。強く強く。
死神の腕の中で私は笑った。それは素敵な満月の夜で、私たちは子供のようにじゃれあった。
「僕はこれからも敵に狙われるだろう。だから、僕と梓は離れ離れに暮らしていた方が良い」
「うん」
「でも僕は君と離れたくない」
「うん」
「ねぇ、約束通り、僕を君の夫にしてはくれないかい?」
「……うん、勿論、いいよ」
「これはとても危険なことで、君を傷付けることもこれからあるかもしれない。でも、僕は僕が稼働する間はずっと君のものだよ、梓」
「私だってイルカのものだよ。ねぇ、キスして良い? ほら、目を閉じて」
「わかった、閉じた、よ……」
私はさっきよりもずっと長い口付けをした。イルカの唇はやはり冷たいままだったけれど、背中に回された腕が生きている彼の証明だった。
もしかしたら私は、身売りをしていた頃に憧れた、悲劇的な結末の椿姫になってしまうのかもしれない。イルカと一緒に暮らすことは、あの物語の中での一時の幻のように幸福な時間になるであろう。だからこそ、壊れてしまう時が来てしまうかもしれないことが怖い。
別れを切り出すのは私かもしれないし、イルカかもしれない。けれど今は信じられるのだ。この、人間ではないのに酷く人間味に溢れたアンドロイドの愛は本物だと。後悔することはないと。
罪深い女に待っているのは救いのない地獄かもしれない。けれど私はまごころの愛を手に入れた。たとえ行き着く先が地獄でも、そこでも私は凛としていよう。私は私の花を咲かすから。
「最近、またキレイになった?」
「へへ、いつものブランドの新作、使ってみてるの」
私たちの新しい生活は始まったばかり。イルカと居る私はきっと、今までで一番キレイだ。
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