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長崎の出島を囲う赤提灯の舟は、艶やかな若い女たちの声で包まれていた。異人に色を売る女たちの姿の中に、一人の少女がいた。禿だろうか。少女は女たちに付き従うように、異人の大舟に乗り込んだ。あんな子どもも、いずれは鬼の客を取るのかと、人魚は波間から眺めていた。
ある雨の夜だった。異人の大舟に沿うように、一艘の小舟があった。その小舟の縁に少女が一人、傘をさして腰かけていた。大舟からは賑やかな笛や太鼓や鉦の音と笑い声が聞こえる。舟番をさせられているのだろう。なんて可哀想な。そう思った人魚は小舟に人の姿の上半身を預け、寄りかかるようにして少女に声をかけた。
「お嬢ちゃん、置いてきぼりかい?」
少女はその声に驚き、傘を落としそうになったが、人魚を一瞥すると「人魚だ!」と笑顔を見せた。
「おや? おかしいな。ほとんどの人は我々を不吉だ何だの殺して騒ぐのだが」
「人魚の肉は不老不死になれるって聞いたんだ。でもまさか、本当にいるなんて思わなかった」
「なんだそういうことか。あたしを肉と思って見てるだなんて」
可哀想だなんて思わなければ良かった。人魚は声をかけたことを後悔した。
「あたしは帰るよ」
「えー。また会える?」
「あたしのことを食べようと思ってる奴になんで会いに行くんだよ」
頭が足りないのか、と思ったが言わないことにして、その日は海へと帰った。
しかし別の雨の日にも、また少女は小舟の番をしていた。前よりも強い雨だ。冷たい雨に凍え、裾を雨と波に濡らしながら細い傘で耐えていた。
「あんた、またここに居るのか」
「人魚さんこそ、私が怖いんじゃなかったの?」
えへへ、と笑う少女の顔がどこか前見たときと違うような気がした。よく見ると頬が腫れている。
「叩かれたのかい?」
少女の笑顔が止まった。
「折檻はよくあるよ。私が悪いんだもの」
表情も声もどこか暗く感じる。廓に生きている人間だ、苦しい生き方に違いない。人魚は忘れかけていた少女への哀れみを思い出した。同時にふと、なぜ少女が不老不死を望むのかを知りたくなった。
「あんたは、なんであたしを食べたいんだい? こんなとこで長生きしても、ろくなことにならないんじゃないのか?」
「だって、人魚の肉を食べると年を取らないんでしょ? 私は年を取りたくないの。客を取りたくないから……」
雨のせいか分からないが、少女の頬が濡れているようにも見えた。雨はますます激しくなり、風も強くなっている。小舟の揺れが大きい。このままでは、こんな小舟はひっくり返るかもしれない。そうなるとこの子は、いや、生きてても地獄が待つだけなのだろう。 人魚は少女を助けたいと願った。
「だったら、ここから逃げないか?」
「え」
「どうせ、禿がひとり大波に拐われただけだ」
少女が沈黙する。やまない雨だけが傘と舟板を厳しく打ち付けた。
「知り合いに気のいい水軍がいる。ひとまず、そこに身を寄せよう」
さあ、と少女に触れようとした時だった。
「zeemermin!」
一人の異人が叫んだ。その声に多くの人影が集まるのが見えた。人魚は少女の腕を掴み、海へ引きずり込んだ。異人の舟だ、火縄やそれ以上の武器があるかもしれないが、この雨だ。撃ってはこないだろう。そう思った時だった。強く鋭い衝撃が胸を貫いた。撃たれた。咄嗟に少女を見ると、少女の腹からは血が煙のようにたなびいていた。人魚は少女の身体を抱えると、痛みも忘れて更に遠くへと泳いだ。少しでも舟から遠くへ、鉛玉が当たらない場所へと。
どれだけ泳いだか分からない。人魚は砂浜の波打ち際で少女を抱えたまま倒れていた。血を流しすぎた、動けない。嵐の雲は去ったのか、激しい雨は優しい小降りへと変わっていた。腕の中の少女は、微かに息を繰り返すが顔色は真っ青だ。息が絶えるのも遠くはない。さざ波を聞きながら、人魚も自身の死が近いことを感じていた。
「どうすれば……そうだ」
人魚は自身の身に爪をたてた。少女に肉を与えることが出来たなら、少女は助かるかもしれない。そう祈って。
「人魚さん?」
少女が目を覚ました時、人魚の命は尽きていた。雨はやんでいた。波の音だけが辺りを包み込んでいた。
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