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「ねえ宇花、ノアの方舟って知ってる?」
教室の窓をたたく雨粒を眺めていると、ふと同じように外を眺めていた真由が小さく呟いた。
2人きりの放課後。虫の羽音のようにかすかな声だって雨音に紛れることなくちゃんと聞こえた。
「……天罰だったか神罰だったかで起きた洪水から逃げるための船、だっけ?」
あやふやな知識をもとに曖昧に答えれば、真由はこくんと頷いた。
その拍子に黒くて長い髪が肩からこぼれ、さらりと揺れる。
私はこぼれた髪を真由の耳にかけ、向かいに座り直した。
薄暗い中でも映える白い頬が緩み、真由は静かに微笑んだ。
「ノアの方舟に乗れるのは、清く正しいノアとその妻、息子夫婦たち。すべての生き物の番だけなんだって」
白磁のような細い指が私の手に触れる。
「他の人たちは?」
私は白い指を捕まえた。
「洪水に飲み込まれてみんな死んじゃった」
クスクスと笑う真由の指と私の指を絡めて握る。
なめらかな肌は柔らかくて、けれど冷たかった。
「じゃあ私たちもきっと水の底だね」
目を細めて言えば、真由は嬉しそうに何度も頷いた。
「うん、そうだね。私たちじゃ方舟には乗れないね」
こつりと額を合わせて、誰よりも近くで見つめ合う。
私たちが行けるのは、新天地ではなくて深い水の底。
あるのは、ふたり一緒に水底のゆりかごに抱かれる安穏な未来だけだ。
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