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「明日の未明、南方町に避難勧告が発令される予定です」
アルバイト先から帰宅したおれは、テレビに映しだされた映像に釘づけになった。
東西に伸びる高架線沿いが冠水し、土砂災害で救助隊までもが出動している。
これは、とんでもない事態になったな。
頭の片隅ではそう思いながらも、現実のおれは、床に転がるキャットフードの空缶を呑気に回収する。
こうして日常を送る限りでは平和そのもので、おなじ陸続きの出来事とは、とても思えなかった。
「なあ、俊介。質問がある」
ひとりきりだと油断していたおれは、ビクッと肩を硬直させた。
「この猫は、なぜ“ちび”なんだ。名前のわりに、ずいぶんな貫禄じゃないか」
おれは暴れる心臓を落ち着かせようと深呼吸する。
こいつがいるのを、すっかり忘れていた。
居候7日目のそいつは、おれと弟の身長が刻まれた柱に寄りかかりながら、ちびのでっぷりとしたおなかを撫でていた。
人見知りが激しいちびも、なぜかこいつには懐いていて、とろんとした眼つきでされるがままになっている。
「よし、決めた。わたしがこいつに新しい名前を授けよう。そうだな、たとえば––––」
そいつは長い金髪を揺らした。涼しげな眉に整った顔立ち。
そこに宿る、かつての面影。
おれは提案された響きを味わいながら、視線を外に投げかけた。
1週間降りつづく雨は糸を引くように地面を叩き、いまだやむ気配がない。
おれたちが住む南方町は、とある爆弾を抱えていた。
それは昭和の時代に建設された巨大ダムで、莫大な資金が費やされた街のシンボルは、長い年月の経過で老朽化し、決壊の危機に瀕していた。
もしダムの水が一気に放流されれば、南方町は海の底に沈むことになる。
そんな不吉な噂を耳にするたび、それも悪くないと内心では思っていた。
そちらのほうが、有終の美を飾れるだろうから。
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