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編集長の身近な男ー小説家、梶
皆川がホワイトボードに、『サイズ、新書版』と書き込んだ。
「では、文庫版ではなく新書版で刊行することにしましょう。次に、大まかな執筆者を決めませんか」
「梶先生はどうでしょうか。九月に他社で発行した新刊も好調のようです」
ひとりの編集者の提案に皆川が返事をしない。少し表情に翳りが見える。
逢坂は持っていた書類を、音を立てて机に置いた。
「梶竜一郎はやめておこう。流行っているけれど、書き下ろしだから慎重に行きたい」
部下たちが顔を見合わせ、声を潜めている。皆川の顔を見つめている者もいる。
逢坂はこめかみを押さえてしばし考えた。
「宇津木先生はどうだ。先生はちょうどターゲットと同世代だ。読者の共感が得られると思う。それに、先月掲載した短編も好評だったからな」
多くの部下が頷く。逢坂は息を吐いた。
(意見を覆すには、別の案を出すのが一番早い)
皆川を見ると目線だけで礼の合図をしてきた。逢坂は頷いた。
昼前に会議は終了した。昼休みまで少し時間があったが、解散することにした。部下たちが次々と会議室を出て行く。
ひとりが皆川に近づいた。さっき、梶を推した編集者だった。
「困るんだよな、梶先生の元恋人がいると。なかなか意見が通らないよ」
小さな声だったが、逢坂は聞き逃さなかった。
「おい、待て」
立ち上がり、足早に部下に近づく。肩を掴んで振り向かせた。
(こういうときは、怒りを秘めて静かに楽しく笑え)
逢坂は心の内で自分に言い聞かせた。腹に力を溜める。唇を歪めて言った。
「そんなに梶先生にご執心なら、あいつの別荘に行ってもいいんだぞ。先生は最近、男に飢えているそうだ。もちろん、有給休暇をやろう」
結構です、と言って部下は顔を引きつらせた。慌てて会議室を出て行く。走り去る音を聞いていると、張りつめていたものが弛むのを感じた。
「ありがとうございます、編集長」
逢坂は、礼を言う皆川の肩にそっと手を置いた。
「気にするな。本当は違うんだから」
「編集長、行きましょう。早くお昼にしましょうよ」
中島に急かされ、逢坂は会議室を出た。もう少し皆川を励ましたかった。狭い廊下を逢坂と中島は、並んで歩いた。
「皆川さん、つらいですよね。梶先生の話題が出る度に変な目で見られていますよ。でも」
一拍置いて、中島が口を開いた。
「編集長は皆川さんを気にし過ぎですよ。過保護というか、親みたいだ……」
逢坂は中島を見た。冷たく表情を消した顔だった。
「あれこれ詮索されて、なかったことまで周りから言われているんだぞ。皆川の気持ちを考えると助けたくなるだろ?」
中島の返事はなかった。
噂の原因は、皆川が前の編集部にいたときに起こった。
皆川が原稿を取りに行こうと梶の家に行ったら、迫られた。皆川が逃げたので未遂に終わった。
噂では、ふたりは付き合っていたとことになっている。
逢坂は皆川本人から、真実を聞いていた。
逢坂は梶の姿を思い浮かべた。
髪を暗い赤に染めて緩やかなパーマをかけている。丁寧な物腰だが、会う度に表情が読み取れない男だなと思っている。
梶の切れ長の瞳と囁くような小さな声を思い出し、心の底をくすぐられたような気がした。
「昔の梶は誠実だったのになあ。どうして変ったんだろう」
「昔って、梶先生と知り合いなんですか」
逢坂は、ジャケットの上から胃の辺りを撫でた。
「梶は大学の後輩だ。それだけだ」
中島は意外そうな顔をした。逢坂はそれ以上、語らなかった。
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