菜種梅雨

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菜種梅雨

「グラウンドの、そうだな、ど真ん中にするか」  痛めつけるように髪を脱色した一人の男子学生が静かに言い放つ。無表情で後ろに控えている取り巻きの男子たちは、まるで健全な高校生に見えほど地味だった。 「そんで、雨が上がるまでそこから動くなよ」  どうしてこうなってしまったのか、私には分からない。  高校に入学して数日経ったある春の長雨の日のことだった。一人で帰ろうと昇降口で外履に履き替えた矢先に彼らに呼び止められ、そして囲まれた。いじめ、というやつだろうか。高校で、人間関係が形成される前の時期だから、まるで身に覚えがなかった。 「おい」取り巻きの一人が威勢良く声を荒げた。「早くいけよ」  俯いたまま、制服の裾を握る手に力を込める。 「全部お前のせいだからな。お前のせいで、俺はこんな下らない人間に成り下がったんだ」  ギリと歯を食いしばる、脱色した髪の男は、心なしか泣きそうに見えた。  カバンをその場に置くと、おずおずと昇降口を抜けて外に出る。雨の中へ一歩踏み出した瞬間、冷気に身震いした。四月の雨は容赦が無く、肌に張りつく水滴がみるみる体温を奪っていく。 「……傘は?」  振り返って訊ねると、男は信じられないものを見るような目で私を睨み、私のカバンを外へ蹴り出した。 「馬鹿じゃないんだから、俺の要求、わかるよな?」  すっかり気力を削がれ、頭が真っ白になる。  いったい自分の何が悪いのか、それを考えることもやめてしまった。  言われるがままにグランドの中心まで歩いていく。ここらへんかな、と思ったところで振り返ると、彼らはグランドの端から私を見ていた。色とりどりの花が咲いているように傘が揺れている。男たちの勝ち誇ったような雄叫びが聞こえたような気がして、逃げるように顔を背けた。  外から見える職員室の窓にはカーテンが引かれていて、明かりで薄ぼんやりとしていた。両手を組み、「誰か気づいて」と祈ってみるが、カーテンの隙間からこちらを覗くものはいなかった。  助けはなく、時間がゆっくりと過ぎていく。  雨がまるで牢獄のように思えた。私を囲う縦の線は途切れることなく、堅牢に、私を世界から区切り取っている。そこに出口はない。  どれくらいそこにいただろう。何時間もいた気がするし、数分だったのかもしれない。気づけばグランドの端の花は散っていた。冷えてきた体が無意識に震え、かばうように両手で自分の体を抱く。  帰りたい、と何度目かの悲鳴を漏らした。もういやだ、とその場にうずくまろうとしたとき、バサ、と何かが頭に被せられる。次の瞬間には腕を力強く掴まれ、引かれ、校舎出入口の庇へと連れていかれた。 「……なにしてんの、あんなとこで、雨の中で」  頭の上から降ってきたのは男の声で、被せられたのは男子の制服のジャケットだった。私はそれを掴むと引き下げ、顔を隠しながら座り込む。 「私が悪いらしいの。だから立ってた。いや、立たされてた、かな?」  意味がわからないと言うような唸り声が聞こえた。ああもう、ほら、とタオルが顔の下から差し出された。 「汗臭いかもしれないけど、ないよりましだと思う」  照れ隠しか、彼は不機嫌そうに言い訳をした。  投げかけられた優しさに私はどうしてだか泣けてきてしまい、涙をタオルで拭くのが憚られて、タオルを見つめたまま固まった。 「ねえ」声が震えないように、喉の奥をぐっと締めるように力を入れて言葉を絞り出す。「私、悪いと思う?」 「……知らないよ」男は困ったような声をあげた。「何も分からないし」 「うん。私も分かんないの」 「そう。それは災難」  彼は私の隣に少し間隔を開けて座ると、黙りこんだ。雨がアスファルト叩く様子を二人で見つめる。やがて彼が独り言のようにポツリと呟いた。 「雨、止まないな」  私は彼に顔が見えないよう注意し、顔を空に向けた。雨を透かして暗雲を見つめる。 「菜種梅雨っていうんだよ」 「菜種梅雨?」 「三月の中旬から四月の上旬にかけて降る、春の長雨のことだよ。大陸から来る移動性高気圧が日本の北に寄って進んで、前線ができるの」 「へえ」彼は感嘆の声をあげた。「詳しいんだ」 「雨が好きなの」私は照れたように笑う。「でも、嫌いになりそう」  彼はまた唸り、そして黙った。沈黙が二人の間に横たわり、それを生み出してしまった申し訳なさから私は口を開く。 「ねえ、帰らないの? 傘は?」  言ったあとに、私を気遣って帰らないのだと気づいたが、彼はそれには触れなかった。 「ない」男はきっぱりと言い放つ。「忘れてきた。雨が止んだら帰る」 「そっか。でも多分止まないと思うよ」  そう言うと私は立ち上がり、水滴を滴らせながら昇降口にある傘置きまで歩いていくと、そこから自分の傘を引き抜いた。彼のところに戻り、それを差し出す。 「これ、使って」 「……折り畳み傘があるから、なんて馬鹿なことは言わないよね?」 「言わないよ」私はくすりと笑う。「今日はいいの。親に迎えに来てもらうことにしたから」 「じゃあ、あんたの親が来るまで待ってるよ。家帰っても暇なんだよね」  彼の見え見えの気遣いが嬉しかったけど、いつまでもここで時間を取らせるのも悪い気がした。 「やだよ。親に見られたらめんどくさいの。女子高生の親って女子高生以上に多感なんだから。娘が男とびしょ濡れでいたら大事件だよ。わかる?」 「なんだよそれ」男は苦笑して立ち上がる。「わかったよ」  彼は私の手から傘を受け取ると、留め具を外して勢いよく開いた。 「うわ、花柄」  彼の心底嫌そうな声がおかしくて、私はいたずら心を出してしまう。 「……かわいいでしょ? 似合うよ」  はは、ありがとう、と彼は乾いた笑い声を漏らすと、傘をさして雨の中へと歩いていく。 「嫌いになんて、なるなよ」  雨が傘に当たる音を破るように、一際大きな声があたりに響いた。顔を上げて彼を見たい衝動に襲われたが、すんでのところで抑えて、負けないくらい大きな声で返事をする。 「えー? なんだってー?」 「いや、雨、嫌いになりそうって言うから。せっかく雨に詳しいみたいだから、もったいないって」 「あー、うん。ありがと。考えとく」 「じゃ、これ借りてくから。そっちも返せよ」  これ、が私の傘で、返せよ、が指すものがジャケットとタオルであることを理解した頃には、彼は既に走って校門を抜けていったあとだった。  私は呆れてため息をつく。そして思い出したように泣いて、そのあと小さく笑った。 「顔も名前も分かんないんだけど……バカ」  鞄をあけて、携帯を取り出す。教科書とかポーチとかほとんどダメになっていたけど、携帯は幸い防水性だった。  ――グラウンドにできた水たまりで友達と遊んでたらびちょびちょになっちゃったから、悪いんだけど迎えにきて。  親に迎えをお願いすると、ジャケットを引き剥がし手櫛で髪についた水滴を払う。もらったタオルを手に取り、顔に近づけてみる。全然汗臭くなんかなくて、少しだけ甘い、女の子のシャンプーみたいな匂いがした。思い出したように寒さが戻ってきて、体が震える。いくらか悩み、諦めてそのタオルで顔や髪、服を拭いた。 「あ、そうだ」私は出し抜けにあることに気づいた。「ネームプレート」  彼のジャケットを広げ、隅から隅まで眺め回してみる。しかし目的のものはどこにもなく、私はがっくりと肩を落とす。 「そっか、ネームプレートって中学生までか……」  項垂れながらも未練がましくジャケットのあちこちを探っていると、内ポケットの中に何か平べったいものが入っているのに気づいた。 「なんだろ」  それは家から自転車で十五分のところにある、小さな図書館の利用者カードだった。
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