01. きっかけ

2/5
前へ
/453ページ
次へ
 春なのは暦の上だけで、外は酷く寒かった。地下鉄の駅から地上に出ると、街にたむろする人々の間には様々な言語が飛び交っている。英語、仏語、中国語を聞きながら歩く道の先には、今日も赤い東京タワーが見える。多分、明日も赤い。  悲鳴のような酔客の哄笑と、絶え間ない喧噪に溢れた表通りを抜けて裏道に入る。私は足を速めた。いるはずないと頭ではわかっていても、気持ちが私を急かしていた。  付き合っていた頃も、結婚してからも、何度も通った馴染みの店。星乙女の名を冠するそのお店「アストライアー」は、ライティングも音楽も落ち着きがあり、店員さんの対応も素敵なお気に入りの場所だった。軽食だが提供されるお料理はどれも美味しく、お酒の種類も豊富なので常連客も多い。  ドアを開けて、ほどよく込み合った店内を見渡すが、待ち人はいない。バーカウンターの2席をとり、私はカクテルを注文した。若手のバーテンダーさんは他の常連客と談笑している。話しかけられたくない今日の私には都合が良い。いつも通り物静かな初老のマスターが、しなやかな手つきでシェイカーを振り、グラスに青と水色のグラデーションを満たしていく。  (来る。俊彰(としあき)はきっと来てくれる)  今日は結婚記念日。私達が付合い始めた日でもあり、この日は必ず毎年ここに来ていた。  俊彰とふたりで迎えるはずの記念日を、私は最悪の気分で過ごしている。
/453ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8203人が本棚に入れています
本棚に追加