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床の間には、抱憶星在手(憶を抱すれば星、手に在り)と書かれた達筆な軸が掛けられ、右手側の籠花入にはホタルブクロが一輪投げ入れられている。左手側に飾られた木地塗りの香合の中には何故か、通常入れられているであろう白檀や沈香などの木片の香ではなく、3粒の金平糖が入っていた。
客人方は席に着くと、茶室の景色に目を楽しませながら、面白い趣向だがどんな意味があるのだろうと、口々に推測しながら談笑する。
竹格子を嵌めた連子窓から漏れ射る夕暮れ時の陽光は、少しばかり哀愁を感じ、先に見える青竹が、サワサワとしなやかに風に揺れる様は、情趣を添えていた。
亭主は扇子を手にして茶道口の前に座ると、深呼吸する。
ちらりと左の据え付け台に目をやるも、いつも励ますように笑みを向けてくれるその女性は、いない。
新米師範として必死に駆けてきて、もうじき四十路になろうと言うのに、いつまで経っても緊張する彼を、彼女は呆れ笑うような笑みで見送ってくれたのだ。
―― これが最後。彼女は、共に。
震える右手の拳を胸に軽く当てて左手を添えると、祈るように目を閉じる。
深く息を吐き出して心を落ち着けると、茶道口の障子戸を開けた。
談笑していた客人が、口を閉じて一斉に畳に両手を揃える。
「本日はようこそお越し下さいました。さしたるおもてなしも出来ませんが、どうぞごゆるりと、ひと時をお過ごし下さいませ」
亭主の口上を聞き終えた上座に座る正客が、表情を和らげて返答する。
「本日は、誠にお目出度うございます。お招きに預かりまして、光栄に存じます」
当たり障りない挨拶が返り、互いに一礼する。
頭を上げると、亭主は菓子器を手に入室し、茶席は始まった。
「お煮えもつきましたので、お薄にて一服差し上げます」
その一言から、本格的な点前は始まる。
点前座に座して風炉に置かれた釜の方へと軽く膝を向けると、茶碗を手にして置き合わせを始める。
指先まで神経を通わせた優美な手つきで流れる仕草は、とても美しい。
茶道は日本文化の粋を集めた総合芸術。
侘び寂びの追及は、果てのない旅。茶席は一種の芸術作品と言っても過言ではない。
そんな芸術作品も、今日はどことなく寂しい。
亭主の補佐として居るはずの半東役が、席を空けている。
彼女の代わりを、亭主は水屋にいる弟子に頼まなかったのだ。
4畳半の室内。いつもは狭く感じるのに、一人いないだけで随分と涼しく感じてしまう。
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