船上のスピカ

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俺はなんと返したらいいのかわからず、綾を眺める。 どうしてこいつ、ありがとうとか言うんだよ。 聞いてもらった俺のほうが礼を言う立場だろ、こういう場合。 「でもいくら他の仕事に逃げても、自分が辛くなるだけだよ? って、私に言われなくても……わかってるんだよね」 わかってる。それでも、どうしようもないんだ。一番やりたかった仕事の担当になれたってのに、次また船上に立てば、俺はいやでも敏也のことを思い出す。 今度こそ試掘を成功させなきゃならないのに、皆が一丸となっている時に、俺だけが――。 すると綾が顔を上げた。 「じゃ、今度また船に乗ったらさ。カイくんも弟さん見習って空を見上げてみたら」 「……」 「そしたらきっと、弟さんが今なにを考えているか、想像つくんじゃない。だって二人は同じ山に登るくらい、仲良し兄弟だったんだから」 弟さんが空にあこがれてたみたいに、カイくんだってメタハイの開発やるの、ずっと夢だったんでしょ、と綾は言った。 「今は掘削船(ドリルシップ)に乗るの、辛いかもしれないけど。よく考えてみて」 「……なにを」 「船は、オイルマンの敵じゃない、味方だよ」 俺は不覚にも脳天を打ち抜かれたような気がして、息ができなかった。 (こいつ、やっぱ只者じゃない) 何度も綾の言葉を噛みしめてみる。――そうだ。たしかにそうだ。あの船は俺の……みんなの希望だ。 それに敏也なら絶対に、この程度の岩山登りで弱音なんか吐かない。 一度決めたら絶対に諦めないやつだから、飄々(ひょうひょう)とした顔でかならず最後まで登りきる。 「東京の空って、あんまり暗くならないよね」 「あ、ああ」 「けど星、海上から見たらすごいんじゃない?」 俺はぼんやりして綾の顔を見た。 その瞬間、あの船から身を乗り出して夜空に見入る敏也の姿が……たしかに見えた気がしたのだ。 「ねえカイくん。私だって、ううん、きっと誰だって、後悔なんかしたくない。だけど消したいくらい嫌な思い出や、できることならもう一度やり直したい過去なんて、どんな人でも一つ二つはあるんじゃないかな。もしそれがまったくないって言うなら――そんなのは本当の人生じゃないと思う」 だから今は、どんなに苦しくてもさ、と綾は微笑んだ。 「いつか壁は乗り越えられる、想いは実現できるって信じなきゃ。本気で、必死に足掻(あが)いてる自分だけは――疑っちゃダメなんだよ」 (……すっげーな、木下) せきとめられていたぶんの想いが、時間が、流れ出していく。 敏也が死んだあの日以来、ずっと胸の奥に乾いた干潟ができていた。 そこに潮が満ち、(はら)の底に力が戻ってくる。  ――ずっと渇望していた、一歩前に踏み出すための力が。 綾と駅で別れて一人電車に乗り、光瞬く都心の夜景を眺めながら、俺はじつに久しぶりに深く息を吸った。 (くそ、ビールが今頃効いてきやがった) 空調の整った車内にいると、なぎ倒されるような眠気が襲ってくる。席は空いているが、今座ったらおしまいな気がするから無理矢理立っておく。 ――でも今夜はやっと眠れそうだな。 つり革に両手でぶらさがりながら、俺は目立たないように唇をゆがめた。
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