船上のスピカ

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眠いぜ、畜生。 ソウル経由カザフスタン、とんぼ返りの旅だった。朝十時、成田から戻ってみれば東京本社の机の上にはもう、書類が山積みになっている。 おい、マジかよ。独身寮に戻って布団の上に倒れこむ――俺の淡い夢シナリオはその瞬間、水泡に帰した。 俺、櫂谷正伸(かいたに まさのぶ)。 エネルギー関連の独立行政法人勤務、二十九歳。 院卒で就職したから社会人は五年目、専攻は地質学、趣味は登山。 好きなものも嫌いなものも特にないが、苦手なのは目下、中国語――それが今の俺だ。 仕事に追われ、気づけばいつの間にか窓の外は夜だった。 十八階から見下ろす東京タワー入りの夜景、午後九時。 今日も残すところあと三時間か。一日二十四時間なんて、あっけないもんだ。 眼球の奥がじんじんする。両肩が重い。 まるで海水の引いた干潟に取り残されて、必死でえら呼吸している魚みたいだ、と出張用バックパックを背負いながら自嘲した。 「お先、失礼しまッス」 部長と課長に頭を下げ、腹減った、と呟きながら開いたエレベーターに乗りこむと、あ、と声がした。 「あれぇ、カイくん。こんな時間に会うの、なんかめずらしくない?」 二十階の総務にいる同期の木下綾(きのした あや)だった。背は高くない。緩い巻き毛を後ろ一つに縛り、グレーのスーツを品良く着こなしている。 これで最近売り出し中の、お笑いコンビ女似な鼻眼鏡じゃなければ、けっこう好みの顔だ。惜しい。 「おう、お疲れ木下」 「ネクタイ無しにジーンズ、その格好さては海外出張帰り? 直帰すればいいのに、まじめだなぁ」 「まあ別に、たいしたことじゃないし」 って、なに見栄張ってんだよ俺。 身体、もう限界寸前なくせに。 「で、今回はどこ行ってきたの」 「カザフ」 「へぇ、なにしに」 「むこうの政府との共同地質調査」 「そっか。何日くらい?」 「一泊三日」 「え? てことは……帰りは機中泊?!」 じゃ寝てないし食べてないんじゃない、と綾は鼻に皺を寄せると、うーんと唸った。 「私さ、おいしい和食の定食屋さん知ってるから、これから一緒に晩ご飯食べてかない? そしたら帰って即寝できるよね」 (メシ)。しかも和食。俺は思わず喉を鳴らした。 「私、最近よく一人で寄ってるんだ」 「はぁ? この時間じゃ、周り中、飲んだくれ親父やカップルだらけじゃね? 彼氏とか呼ばないわけ。うっわ寂しいやつだなー」 言いながら、いやしかし綾はそういう女だった、と思い出した。 新人のころ、俺らは名字が近かったから、たいがい研修時はきまって隣席だった。こいつは他の女とちがって群れないしブレない。 見た目や話し方はのんびりしたお嬢のくせに、目標に向かってひたすら(いのしし)のように突き進む、男より男前な女なのだ。 「疲れたらまずは食べないとね。そしてぐっすり寝る、基本でしょ? しかし寂しいとか、本人に言うかなー。あいかわらずカイくん、口悪いねぇ」 綾はふん、と鼻を鳴らした。 「彼氏いたら呼ぶよ、私だって」 ピンコン、エレベーターが一階に到着する。 「じゃさ。店のぞいてみて、いいって思ったら食べて帰ろう?」 実のところ、こいつが同期会の幹事でセレクトする(メシ)は、いつも大層美味い。 おそらくこうやって一人で店を開拓しているんだろうが、にしても本物(ホンモノ)を察知する能力は只者じゃない。 へいへい、とついていくと綾が指さしたのは駅前からほど近く、どちらかというと親父連中が好みそうな割烹の店だった。店構えは地味だが、入って注文した親子丼ははたして五臓六腑に染みいる美味さだ。
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