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朝、いつもより少し早く起きた俺は制服に着替えて、自宅を出た 母は寝ていて、父は大抵出張でいない 兄は3年も前に上京した いってらっしゃいも、行ってきますもない そんな日常 二両編成のワンマン電車で、乗り継ぎ地点の駅に降りる もっとも、俺が通っている学校は乗り継ぎなんかしない ここが終点だ 学校まではここからスクールバスが出ているから でも、今日は夏見先生がいる学校に行こうと思っていた だからここの駅から乗り継いで、あの長閑な駅で降りる だだっ広く、閑散としたホーム テニスラケットが入っていると思われる大き目のバックを背負って、制服を着た男の小さな集団が目の前を通り過ぎた 楽しそうに仲間と話をしている 朝練かな その姿が、眩しくて 俺はそっと視線を逸らした 時計を見ながら、キャリーケースを押しているサラリーマンが目の前を通り過ぎる 真面目に、真っ当に生きている人間の多いこの時間は 俺には居心地が悪い やっと乗る電車が来て車内に入り、がらがらの椅子に腰かけた そこからすぐ出発する事はなく、しばらくの間、東京から来る下り電車と時間を合わせるために停車する 使い勝手の悪い電車、駅、町… 俺はため息を吐いて、カバンから本を取り出す 前屈みになって椅子に浅く座りなおし、ノルウェイの森下巻を、しおりを挟んでいた部分から読み始めた 気付くと電車は動きだし、四角い窓の景色が町並みから田園風景へと変わっていった 夏になり、田んぼの稲は青々と生い茂っている 規則的な電車の走行音、静かな車内 ゆっくりと流れていく時間 乗り継ぎの駅から四駅目、目的地に着く 降りる人は俺と、後は数えられるほどだった 改札に向かって歩き出す 前回来ているから、大分この駅や町に慣れてきた と言っても駅周辺だけだけど 今日この駅に降りた理由は一つ 先生にこないだの事、謝ろうと思っていたからだ そして、ちゃんと伝えないといけないと思っていた 朝の、駅から学校までの道のりは、カートを押す腰の曲がったおばあさんや、通勤通学の人が疎らに行き交っていた 学校に着いて、校門を目立たないように抜けて保健室に向かった 扉を開けると室内は静かで、誰もいないのを雰囲気で察する でもこの間見た景色と違うのは、左側がカーテンの壁になっていて、よく見ると、誰かが保健室で休んでいるようだった ちらっと覗くと、そこにはこの間一瞬見かけた女の子がいた 二度保健室に訪れて、二度も会うなんて、この子も結構サボりが多いのだろうか? 小さな寝息が聞こえている 完全に熟睡しているんだろう カーテンをそっと閉めた 机に目をやると、紙にミミズがのたくったような字で何か書かれていた 「…三ノ輪橋秋」 多分、寝てる女の子の名前だろう 机の側には、その紙と一緒に、乱暴に頭痛薬が開けられていた 椅子を引いて腰かけて足を組み、携帯を開いた 特に何するでもなく、届いたメール達を見返す しばらくすると、カーテン越しに物音が聞こえた さっきの女の子が目覚めたんだろう 「あ」 カーテンの方から声が聞こえた 三拍ほど間を開けて、その声がした方に振り向く 目が合う 「こないだ振り」 俺がそう言うと、女の子は少し睨みつけるように俺を見て部屋を出ようとした ので、咄嗟に口走る 「こないだのこと、秘密ね」 「っえ?」 女の子は声を上ずらせて慌てて振り返った 「夏見先生と俺が、付き合ってんの」 ペンを回す 「俺と、三ノ輪橋秋の秘密だよ」 口角をあげて秋を見た 秋は百面相のように表情を変えていたが、しばらくすると 「ご自由にどうぞ」 と、素っ気なく言うと保健室を出ていった 誰もいなくなった、静かな室内 立ち上がると、キィ…と椅子が寂しげな音を立てた 先生には会わなかった
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