4.追憶のメロディ

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4.追憶のメロディ

 闇色の空は今にも雨が降りそうな分厚い雲に覆われている。 『……崎、……西崎っ!』 大声で名前を呼ばれて西崎沙耶は飛び起きた。 「……国井さん?」 沙耶はあくびを噛み殺して寝ぼけ眼で相手を見上げた。沙耶が所属する風見新社の社会部副編集長の国井龍一が苦笑いを浮かべている。 社会部のフロアは電気が半分切られ、人のいないオフィスは雑然としていた。デスクに散らばった書類の隙間から見える置時計の針が間もなく午後9時を示す。 『やっと起きた。よだれ垂らしてたぞ』 「えっ! よだれ?」 『なんてな。ウソウソ。可愛い寝顔ですうすう寝てたなぁ』  国井にからかわれて沙耶は口を尖らせた。国井副編集長は顔はそこそこ良く、若い頃ならばモテた部類であろう。 今も渋味のある見た目だけなら魅力的な男性なのだが、平気でセクハラ発言を連発する惜しいオジサンと化している。 『記事できたか?』 「なんとか間に合いそうです」 『ご苦労さん。……そういや西崎は社会部来て何年だ?』  国井は通路を行きかけた足を止めた。彼は数冊のファイルを脇に抱えている。 「まだ2年です」 『2年か……。担当はコラムがほとんどだよな』 「社会部ではまだまだ新人ですから」 沙耶のデスクの前に来た国井は彼女の隣のデスクから椅子を引いて座る。 『企画段階の話だが、年明け一発目の号で未解決になってる事件の特集を組もうと思ってる』 「未解決事件を?」 『去年の4月に殺人事件の時効が廃止になっただろ。そこでだ、時効が成立していない未解決事件をうちの観点で調べ直していく。事件を風化させない目的と情報提供も兼ねてな。そこで何か新事実がわかれば警察も儲けものだ。これ見てみろ』  彼が手にしていた数冊のファイルが沙耶のデスクに置かれた。沙耶は一番上のファイルから順にページをめくる。 ファイルには2010年4月27日の法案改正時点に時効が成立していない関東近辺で発生した未解決事件の新聞記事がスクラップされていた。どれもこれも事件当時ワイドショーを騒がせていた有名な事件だ。 半分までページをめくった沙耶はある記事に目を留めた。 「この事件……」 『……ああ、10年前の小平(こだいら)社長夫妻の殺人事件か。確か殺害された夫妻の娘が事件後に行方不明になって、誘拐だとか言われて当時かなり騒がれていたな』 「私、この殺された被害者家族を知っているんです。家が近所で……」 『近所? 西崎は被害者と親しかったのか?』 「殺された夫妻とはそれほど……。当時は私も高校生だったので奥さんとは挨拶程度でした。でも小学生の娘さんとはたまに公園で遊んだりしてて……」 沙耶は新聞記事に視線を落とす。 「だから旦那さんと奥さんが殺されて娘さんが行方不明と聞いた時はすごくショックでした。近所であんな殺人事件があったのも初めてでしたし」  事件は10年前の2001年10月18日木曜日に起きた。 東京都小平市の会社経営、佐久間(さくま)晋一(しんいち)(38)と妻の聡子(さとこ)(35)が刃物で全身を数ヵ所刺されて死亡した。 晋一と聡子の財布からは現金が盗まれており、小平警察署は強盗殺人事件として捜査を開始したが佐久間夫妻の長女の芽依(めい)(10)の行方が事件直後からわからなくなっていた。  芽依のランドセルは自宅に残されたままだった。芽依は小学校から帰宅後、佐久間夫妻を殺害した犯人に誘拐された可能性が高いと捜査本部は判断。 殺人事件の捜査と同時進行で芽依の捜索も行われた。 事件から1週間後の10月26日の夕方、芽依は小平市内の交番で保護された。芽依に怪我や衰弱はなかったが、彼女が最後に小学校に登校した事件発生日の18日とは着ている衣服が異なっていた。 事件発生後から行方不明になっていた1週間の出来事を芽依は何も話そうとせず、ASD(急性ストレス障害)の症状があると精神科の医師は診断を下した。  佐久間夫妻を殺害した犯人及び、芽依を誘拐した犯人の手がかりはなく、捜査は難航。 唯一の手がかりは佐久間家の殺害現場に残されていた犯人と思わしき人物の遺留物だが、佐久間夫妻の周囲に遺留物の該当者は見つからなかった。 「佐久間夫妻にはどちらも兄弟がいなくて高齢のご両親しかいらっしゃらなかったので、芽依ちゃんは施設に引き取られたと母から聞きました」  10年前の事件を思い出して沙耶は目元を潤ませた。自分の身近で起きた事件にはつい感情が入る。 国井は腕組みをして沙耶を見据えた。 『西崎。お前この事件を追え』 「私が?」 『10年前の殺人事件と少女誘拐、お前がこの事件の記事を担当するんだ』 「でも……いいんですか? 私、社会部に来てまだまともな記事も書いたことありませんよ?」 戸惑う沙耶の肩を国井が叩く。 『もともと未解決事件の特集の担当をお前にもひとつ任せるつもりだったんだ。西崎にどの事件を担当させようか考えていたんだが、お前はこの事件の被害者家族を知っている。被害者をまったく知らない人間よりもお前の視点だから書ける記事がある。新事実を見つける気で、ここら辺りで手柄挙げてこい』 「はいっ。ありがとうございます!」  沙耶は寝起きでボサボサの髪を手ぐしで整えてから、国井副編集長に頭を下げた。
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