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アイヴィーや他の客が帰った後も、ディランは一人バーに残って時間を過ごしていた。
すでに営業時間は終わっていたが、店主のエイダ自身が緩いので頼めばこうして開けておいてくれるのだ。
――それにしてもアイヴィーはなぜ、あんなにも自分に執着するのだろうか。
こちらは敢えて避けているというのに、彼女は諦めずに振り向かせようとしてくる。仕舞いにはこの店で働くとまできた。これではもう避けようがない。
(そんな俺も、彼女のことを言えたもんじゃないか……)
ディランは深いため息と共に、タバコの煙を吐き出す。
すると突然、向かいの席で一緒にタバコを吸っていたエイダが、含みのある笑みをディランに向けてくる。
「何だよ、いきなり笑いやがって。気持ち悪ぃ……」
「アイヴィーって本当にかわいいよね。あんたのこと、『おじ様』って呼ぶところがさ」
「そうだな」
気のない返事をするディランだったが、先程から思い浮かべているのはアイヴィーのことばかりである。
かわいいなんてものではない。今まで見てきた女の中でも、アイヴィーはずば抜けて美しく魅力的だと見た瞬間に感じた。
あどけなさが残る愛らしい顔立ちや、甘い香りが漂ってきそうなピンクブラウンの髪、そしてあのはち切れんばかりの美事な巨乳に至るまで、彼女の全てが愛しくてたまらない。
酔いつぶれたアイヴィーを家に連れ帰って介抱したのも、本当は少しでも長く自分のそばに置いておきたかったからだ。
思わずベッドに押し倒した時も、自身の腕の中に閉じ込めてしまいたいと考えた。
その影響からかディランは毎晩のように、アイヴィーが出てくる夢を見るようになった。
夢の中の彼女は、艶を帯びた表情と豊満な乳房で誘惑しては、こちらの欲情を煽るように「おじ様」とささやきかけてくるのだ。
目覚めた時には必ず下肢の中心が昂っており、場合によっては夢精していることもある。
内に秘めた欲望が、アイヴィーを自分のものにしろとささやいてくるが、ディランは何とか理性で抑えていた。
しかし、それもいつまで持つかわからない。だから冷たい態度を取ってでも、アイヴィーとは距離を置こうと決めたのだった。
(それなのに俺は、何であんな約束をしちまったんだか……)
デートなんてすれば、余計に離したくなくなってしまう。だからどんな理由をつけても断るつもりでいた。
それでもディランは最終的に承諾した。正確には、承諾せざるを得なかったというべきだろう。
エイダや飲み仲間に言われたからというのもあるが、一番の理由は彼女の不安と期待が入り混じった瞳を見てしまったからだ。
以前のディランであれば、どんな眼差しを向けられようとも、ためらうことなく断ることができた。事実、これまで女から受けてきた誘いは、全て断ってきたのだから。
泣かれたことだってあるが、それを見ても何とも思わなかった。
だが、アイヴィーの泣き顔を想像した瞬間、なぜか胸が締めつけられるような感覚を覚えたのだ。
今まで何事にも動じず、ましてや一人の女に心を掻き乱されたことなどないディランは、自身の心境の変化にただ戸惑うしかなかった。
「まあ、良かったじゃない。アイヴィーとデートすることになって」
「お前らに言われたから、仕方なく承諾してやったんだよ」
「またそんなこと言っちゃって。本当は満更でもないくせに」
「ほざいてやがれ」
可笑しそうに笑うエイダを、ディランは煩わしそうに受け流す。
彼女の言葉は図星だった。口では仕方なくと言いつつも、内心では満更でもないと思う自分もいたのも事実である。
「ねえ、このままアイヴィーと付き合っちゃえば。あの子あんたに首ったけなんだし、この機を逃せばもう次はないよ」
「それとこれとは別の話だ」
またしても、心にもないことを口にしてしまう。
こうして嘘を重ね続けては、そんな自分に嫌気が差す――アイヴィーと出会ってからずっとその繰り返しだ。
ディランの心中などお見通しなのか、エイダは呆れたようにため息をつく。
「もう、何でそんなに頑なに拒否するのさ? 別に何も問題ないだろう?」
「そりゃあ、俺みたいなおっさんにあんな魅惑的な美少女、どう考えたって釣り合わねぇからだよ。ああいう子にふさわしいのは、やっぱりもっと若くていい男じゃないのか」
「年の差なんて、些細なことに過ぎないって」
「それだけじゃねぇよ。殺し屋なんかと付き合って、あの嬢ちゃんが幸せになれる筈ねぇだろう」
軍人だった頃から殺し屋に転身した現在に至るまで、ディランは数えきれないほど人を殺してきた。
――そんな自分があの美しいアイヴィーと結ばれるなど、罰当たりもいいところだろう。ましてや彼女にだけは、自分が引き金を引くところなど見せたくない。
「本当にそれだけ?」
エイダは突如、今までにないぐらい真剣な表情で訊き返してくる。
「何が言いたい?」
ディランもまた、睨むような眼差しでエイダを見つめ返す。
「ディランを見てるとどうも、わざと愛や幸せを避けているような気がするんだよね。あんたがそういう行動を取るのは、やっぱり自分の生い立ちを――」
「それ以上、喋るな! お前に俺の何がわかる!」
ディランはとっさに声を荒げて、エイダの言葉を遮った。
たとえ気心の知れた相手であっても、その話題だけはどうしても触れられたくなかった。
さすがのエイダも、今の発言はまずかったと思ったようで、申し訳なさそうにうなだれる。
「すまない、余計なことを言ってしまって……」
「いや、俺もつい激昂して悪かった……」
それからしばらくの間、店内には重苦しい沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、エイダの方だった。
「……だけど、これだけは言わせてほしい」
彼女はそう切り出すと、ディランの手をそっと握った。
「生い立ちに関係なく、ディランにだって幸せになる権利はある筈だよ。それに、たとえあんたの全てを知っても、アイヴィーならきっと受け入れてくれると思うよ」
「こんな悪魔でもか?」
ディランは自嘲気味に笑いながら問う。
「賭けてもいい」
エイダは妙に自信満々である。
「その根拠のない自信、一体どこから来るんだよ? まさか女の勘とでも言うんじゃねぇだろうな?」
くだらないとばかりに笑い飛ばすディランに対し、エイダの眼差しは真剣そのものだった。
「あたしが思うに、アイヴィーがこのリーブスへ来たのは決して偶然じゃない。ディランと出会ったのもそう。この街に流れる空気が、あの子をここへ引き寄せたんだ……」
エイダは時々、こういう謎めいたことを口にする。ただ、その意味を問うと必ず長話が始まるので、今回もただの独り言だと思って聞き流すことにした。
「さて、深刻な話はこれでおしまい。景気づけに飲み直そうよ。この分はツケにしておくから」
エイダは気を取りなすように明るい声音で言うと、酒を取りにカウンターへと向かう。
「おごりじゃねぇのかよ?」
「そうね……。さっきの賭けにあたしが負けたら、おごってやってもいいよ」
「……いいぜ。その賭け、乗った」
「よし、決まりだね」
エイダはよほど自信があるらしく、勝敗はすでに決したとばかりに口の端で笑った。
その不敵な微笑を見たディランは、やはり乗るべきではなかったと後悔する。
しかし、言ってしまった以上、今更取り消すことなどできない。
ディランは再度深いため息をつくと、吸い殻を灰皿に入れて酒を煽った。
それにしても、エイダの言葉通りアイヴィーは本当に、全てを知っても受け入れてくれるだろうか。
自分の生い立ちなど、とてもじゃないが誰にも知られたくない。何せディラン自身が、長年その話題を封印してきたのだから。
『この世界にもきっと、私と同じぐらい……いえ、それ以上にあなたを愛してくれる人がいる筈よ』
ふと、母が死ぬ間際に告げた言葉を思い出す。
その相手が本当にアイヴィーだとすれば、嬉しいことこの上ない。
「そんな都合の良い話、あるわけないか……」
――アイヴィーには自分だけを見ていてほしい。だが、こんな悪魔のような自分に彼女を関わらせたくない。
矛盾した二つの想いが、ディランの中で交差していくのだった。
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