836人が本棚に入れています
本棚に追加
第三章 ~あなただけに愛されたくて~
ディランとデートの約束をした後も、アイヴィーは毎日リーブスを訪れては、バー『ブラッディ・ムーン』で働いていた。
仕事が楽しいからというもあるが、一番の動機はもちろんディランに会うためだった。
彼の態度は相変わらず素っ気ないものの、話しかければちゃんと受け答えしてくれるので、とりあえず嫌われていないと見ていいだろう。
もし本当に嫌われていたとしたら、今頃デートの話など出ていない筈だ。
もっともディランの反応を見る限り、エイダ達に言われて仕方なくといった感じも否めないが。
(でも、おじ様とデートできるなんて嬉しい……)
今まで生きてきた中で、これほど喜ばしいことは今回が初めてかもしれない。
代わり映えしない日常にようやく張り合いが生まれ、毎日が楽しくて仕方がなかった。
全身から幸せオーラを放つアイヴィーの姿が、色欲の館ではよほど浮いていたのだろう。姉達からは冷ややかな目を向けられていた。
「あの子、大丈夫かしら……?」
「あそこまで機嫌が良いと、かえって気味が悪いんだけど……」
無論、気分がすっかり浮き立っていたアイヴィーは、自身がドン引きされていることなど知る由もない。
「ここ最近、とても楽しそうね。何かいいことでもあったの?」
ただ一人、陰ながら恋を応援してくれるアニエスは、興味津々といった様子で尋ねてくる。
「実はね、おじ様とデートすることになったの」
「それは良かったじゃない。その男もようやくアイヴィーの魅力に気付いたのね。もしかしたらそのまま部屋に連れ込まれて、朝まで激しく愛されるかもしれないわよ」
アイヴィーが抱かれている場面を妄想したのだろう。アニエスは頬を赤らめて、恍惚とした笑みを浮かべた。
おまけに美しい肢体から、ほんのわずかに甘い香りが漂ってくる。フェロモンの香りである。
「さすがに一回のデートでそこまでは……」
アイヴィーは苦笑いしつつも、心の中では姉の言葉通りの展開になることを望んでいた。
だが、まずはディランに好きだということを伝えなければ始まらない。それ以前に、彼の想いすらまだ聞いていないのだ。
(エイダさん達が言っていたように、おじ様が本当に私に恋焦がれているとしたら……)
もし恋愛小説のような展開になれば、互いの想いを確かめるように濃厚な口づけを交わしたのち、ベッドの中で体をつなげることになるだろう。
想像しただけで快楽が込み上げてくると同時に、デート当日が待ち遠しくてたまらなかった。
デートまでの一週間。アイヴィーは湯浴みやベッドに横たわっている時などに自慰行為を繰り返しては、ますます甘く淫らな妄想を膨らませていった。
そして当日。アイヴィーはいつも以上に気合を入れて、ドレスアップに臨んだ。
ディランはあまり興味を示さないかもしれないが、それでも好きな男性に綺麗な姿を見てもらいたいのが女の性である。
「アイヴィー、手伝いに来たわよ」
妹の恋の行方がよほど気になるのか、それとも自身の欲求を満たしたいのか、アニエスが遊び半分で部屋にやって来る。
「今日はあなたにプレゼントがあるの。せっかくのデートなんだから、やっぱりちゃんとしたものを着ていかないとね」
アニエスがアイヴィーのために用意してくれたのは、特注で作らせたというフローラルピンクのドレスだった。
大好きなフリルやリボンがふんだんに使われて愛らしい一方で、肩や胸元は大胆に露出するデザインになっていた。
実際に着てみるとサイズはアイヴィーにぴったりだが、たわわに実った乳房が今にもこぼれてしまいそうである。おまけにスカート丈はかなり短い。
「私の見立て通り、とてもよく似合っているわよ」
ドレス姿のアイヴィーを見たアニエスは感嘆のため息をつく。
「でも、ちょっと胸元が開き過ぎじゃないかしら? 何だかまるで、おじ様を誘惑しているみたいだわ」
「そのつもりで作らせたのよ。好きになった男のハートを射止めるには、やっぱり自分の魅力を存分に見せつけないと」
――この場合は魅力というよりむしろ、豊満な胸の谷間ではないだろうか。
アイヴィーは内心でツッコミを入れつつ、改めて姿見の中の自身に目を向ける。
「でも、これはこれですごく素敵ね」
フリルやリボンはもちろんのこと、ドレスの色やスカートの裾に施された薔薇の刺繍は、まさにアイヴィーの好みだった。
「当然でしょう、あなたの好みに合わせて作らせたんだから」
アニエスは自慢げに胸を張ってみせる。
「ありがとう、アニエスお姉様」
新しいドレスに身を包んだ影響もあるのか、自然と気分も明るくなっていく。
「靴はこれがいいんじゃないかしら?」
アニエスは勝手にクローゼットをあさり、真新しい赤の靴を取り出して持ってくる。
その靴は以前、見た目がかわいいからという理由で、人間界の街で衝動買いしたものだ。しかし、あまりにも綺麗で履くのがもったいなくて、ずっとしまったままになっていた。
「せっかくこんな素敵な靴を持っているんだから、ちゃんと履いてあげないとかわいそうよ」
姉の言葉はもっともである。買ったからにはちゃんと履くべきだと思うし、何よりクローゼットの中で埃まみれにしたくない。
アイヴィーは靴を履き替えると、その感覚を確かめるように足を軽く動かす。
買う時にしか履かなかったため、ちゃんと足に合うか不安だったが、何の違和感もなく靴擦れを起こすこともなさそうだ。
その後も髪のセットから化粧に至るまで、全部アニエスに任せきりだった。
最初は自分でやるつもりだったが、楽しそうな姉の姿を見ていると断るのは申し訳なくなり、こうして頼む形となったのである。
約一時間かけて髪型のセットと化粧を施され、美しさにより一層磨きがかかったアイヴィーを、アニエスはまぶしそうに眺めていた。
「とても美しくて素敵だわ。これなら間違いなく、あなたの想い人を一発でメロメロにできる筈よ」
「ほ、本当!?」
「ええ、だから自信を持ってデートに臨むのよ」
アニエスに言われると不思議と自信が湧いてきて、本当にディランの心を射止めることができそうな気がする。
「アクセサリーは自分で選びなさい。それじゃあ、私は戻るわね」
「ありがとう、アニエスお姉様」
優しく声援をかけてくれた姉に、アイヴィーは再度礼を言う。
それから宝石箱を開けて、数あるアクセサリーの中から着ているドレスに似合いそうなものを選んでいく。
「どれがいいかしら……」
いざ着けるとなると迷ってしまい、なかなか決められずにいた。
ディランの好みがわかれば選びやすいのだろうが、残念ながらまだ聞き出せていない。
悩んだ末アイヴィーは、ローズクォーツのネックレスと小振りなパールのイヤリング、そして薔薇の飾りがついたヘッドドレスを着けていくことにした。
立ち上がる際、彼女はふと思い出したように引き出しを開ける。
中にある媚薬入りの瓶を手に取り、しばらくそれを見つめて考え込んだ。
先程のアニエスの言葉を疑うわけではないが、ディランがアイヴィーの虜になってくれる確証もないのだ。
できればこんなものは使いたくない。だが、ディランが振り向いてくれるのを待ち続けるも、すでに限界に近かった。
(おじ様に想いを告げられないまま、初恋を終わらせるなんて絶対に嫌……!)
運命の相手と結ばれたいのであれば、多少強引な手段に出ても成し遂げるぐらいの覚悟も必要だろう。
今夜のデートで告白しても受け入れてもらえなかったら、ディランに媚薬を飲ませて体をつなげてしまおう。
アイヴィーは決意を固めると、ポシェットの中に瓶を入れる。
ちょうどその時、ノックもなしに部屋の扉が開く気配があった。
「どうしたの? 何か忘れ物?」
てっきりアニエスが入ってきたのだと思い、アイヴィーは疑うことなく声をかける。
しかし、振り返ると部屋にいたのは姉ではなく、女性と見紛うほど見目麗しい男だった。
ほとんど部屋にこもりきりのアイヴィーでも、彼がこの色欲の館に来るのを何度か見かけたことがある。しかし、こうして顔を合わせるのは初めてだ。
――一体、自分に何の用があるのだろうか。
「私の予想通り……いや、それ以上に美しく可憐だ……」
男はアイヴィーの姿をじっと見つめて陶然となっていた。
「あの、何か……ご用でしょうか……?」
恐る恐る声をかけると、男はごく丁寧な所作で「これは失礼」と一礼する。
顔を上げる際、彼は長いワインレッドの髪を掻き上げるが、その仕草がいかにもナルシストっぽくてアイヴィーは好きになれなかった。
「私の名はシオン。君がアイヴィーだね、ずっと会いたかったよ。処女の淫魔である君には以前から興味があったものでね。良ければ今夜、私の相手をしてもらえないだろうか?」
シオンは優しく微笑みながら、ゆっくりとアイヴィーに近づいてくる。
「ごめんなさい。私、すでに他の方との約束があるので……。それに、私はもう……その方に純潔を捧げましたから……」
後者は嘘だが約束があるのは本当だ。それに、純潔であることがバレたら間違いなく犯されるだろう。何があっても、ディラン以外の男には体を触れらたくなかったし、処女を捧げたくもなかった。
するとシオンは嘲笑うかのように、冷ややかな眼差しをアイヴィーに向ける。
「もしや、人間界へ行くのかな?」
「え……?」
初対面の相手に自身の行動を知られていたことに、アイヴィーは愕然となって表情を凍りつかせた。
――自分が人間界に行っていることが、客の間でも噂になっているのだろうか?
アイヴィーの心情などお構いなしに、シオンは更に距離を縮めてくる。
「君のような美しい子が、愚かで下賤な人間に体を差し出してはいけないよ。その男に触れられた痕跡、私が綺麗に消してあげよう」
そう語りかけてくる口調は優しいが、髪と同じ色の瞳には狂気の色が含まれていた。
「嫌……来ないで……」
アイヴィーはかぶりを振りながら後ずさるが、背後の鏡台にぶつかってつまずいてしまう。
「怖がることはないよ、アイヴィー。さあ、このまま私に身をゆだねなさい」
「痛いっ!」
美しい容姿から想像できないほど強い力で手首を掴まれ、アイヴィーはたまらず悲鳴に近い声を上げる。
「失礼。君に触れられるのが嬉しくて、つい力を入れ過ぎてしまったようだ」
言葉とは裏腹にシオンは反省している様子もなく、アイヴィーを強引にベッドへ連れて行こうとする。
「嫌ッ! やめて、離して!」
アイヴィーは無我夢中でもがくが、か細い女の力では敵う筈もない。
どれだけ叫ぼうとも、誰も助けになど来てくれないだろう。弱者が強者に淘汰される魔界ではそれが当たり前なのだ。色欲の館とて例外ではない。
アイヴィーはなす術もなく、そのままベッドに投げ出されてしまう。
怯えて青ざめる彼女を見て、シオンは悠然と上着を脱ぎ始める。
(おじ様に抱いてもらえないまま、私はこの男に犯されてしまうの……?)
絶望のあまり目の前が真っ暗になったその時、シオンは突然その場に倒れて動かなくなった。
――一体、何が起きたのかわからない。
状況を確かめるべく顔を上げると、そこには花瓶を手にしたアニエスが立っていた。どうやらそれでシオンの後頭部を殴ったらしい。
「アイヴィー、大丈夫!?」
アニエスは花瓶を置くなりアイヴィーの安否を気遣う。
「アニエスお姉様、どうして……?」
「彼が薄気味悪い笑顔で歩いていく姿を見て、すごく嫌な予感がしたから急いで戻ってきたの。そうしたらあなたの悲鳴が聞こえたから、廊下に飾ってあった花瓶でとっさに殴ったってわけ。まあ、気絶しているだけだから気に病むことはないわ」
アニエスは特に動揺する素振りを見せず、意識を失ったままのシオンを引きずっていく。
「ごめんなさい……。私のせいで……アニエスお姉様にこんなこと……させてしまって……」
「さあ、この男が意識を取り戻す前に早く行きなさい。あとは私が何とかするから」
姉に促されるままに、アイヴィーは魔方陣を出現させる。
「ごめんなさい……」
再び謝罪の言葉を口にしたのち、転移魔法を唱えて色欲の館のあとにした。
最初のコメントを投稿しよう!