第一章 ~淫魔の初恋~

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「ねえ……アニエスお姉様、この服……本当に似合ってるかしら?」  アイヴィーはショーウィンドウに映る自身の姿を、不安げな面持ちで見つめていた。  いつもならリボンやフリル、レースがあしらわれた衣装を着るのだが、今の彼女が身にまとっているのは、デコルテが大きく開いたスカート丈の短いドレスだ。色も明るいピンク色ではなく、黒やワインレッドを基調としたものである。  アニエスに勧められるまま着てみたのだが、元々は彼女の嗜好に合わせて作られたものなので、自身に似合っているとはとても思えない。 「ええ、とても似合ってるわ。ほら、街の男達だってあなたを見ているわよ」  アニエスの言葉通り、行き交う人々は皆こちらに視線を向けている。 (でも、彼らが見惚れているのは、私ではなくアニエスお姉様なのでは……?)  姉が身にまとっているのは、セクシーなボディラインが強調された、ヴァイオレットのマーメイドドレスだ。おまけに大きく開いたデコルテからは、今にも豊満な乳房がまろび出そうである。  無論、アイヴィーもアニエスに負けないぐらい美しいが、まだ純真な乙女だからかあどけなさが残っていた。  やはり自分は見劣りしているのではと、内心で気後れしているとアニエスが励ますように声をかけてくる。 「アイヴィー。今のあなたは私でも見惚れるほど、とても色っぽくて素敵よ。だからもっと自信を持ちなさい」 「う、うん……」  姉の言葉はちょっと大げさな気がしたが、せっかく褒めてもらったので素直に受け取っておいた。 「それじゃあ、そろそろ行くわね。あなたもいつも通り、楽しんでらっしゃい」  アニエスは優雅に手を振ると、上機嫌な様子で大通りへと歩き出す。  すると数秒も経たないうちに、男達から次々と声をかけられていく。  アイヴィーは姉の後ろ姿を見送ったのち、もう一度ショーウィンドウに映った自身の姿を見やる。  顔立ちも体型も決して悪くないと思う。事実、これまで何度か異性に容姿を褒められているのだから。  ただ、胸元や太腿を大胆に露出した煽情的なドレスを着ている分、色気が欠けてあどけなさが強調されているように感じられるのだ。  どこかで自分に合う服を買って着直そうかとも考えたが、それでは姉の厚意を無下にすることになる。 「今日はもう、この格好で何とか過ごすしかないわ」  今まで愛らしいドレスばかり着ていたから気付かなかっただけで、もしかしたら案外こういう色気に溢れたものも似合っているかもしれない。  アイヴィーは元気を出すように微笑むと、街中へと繰り出していく。  今訪れている人間界の街は、落ち着いたクラシカルな建物が多いのが特徴だ。また、人もそんなに多くなくて歩きやすい。どことなく、小説の舞台に出てくる街に似ている気がする。  ここ最近の大都市は人の数が多くて騒々しい上に、天を貫かんばかりの高層の建造物や無駄にまぶしい灯りで溢れ返っていて、アイヴィーは少しだけ苦手意識を抱いていた。  こういう小さな街なら運命の相手を探すのにうってつけだと、アニエスなりに考慮してくれたのだろう。  あるいは姉もアイヴィーと同じく、ごちゃごちゃした都会に行きたくなかっただけかもしれないが。  夕日に包まれていた街も次第に暗くなり、街灯にぽつぽつと灯りがともされていく。  闇に属する者達が住まう魔界で生まれたからか、幼い頃から夜の街はとても好きである。  鼻歌を歌いながら軽い足取りで歩いていると、すれ違う男達が立ち止まってアイヴィーに見惚れているのが伝わってきた。 「何てかわいい子なんだ」 「あんな美人で胸の大きい女の子、初めて見るぞ」  自身の容姿を褒めそやされ、アイヴィーは誇らしげに胸を張ってみせる。  これで運命の相手に出会えたら、気分はもう最高潮なのだが。  夢に思いを馳せるアイヴィーに水を差すように、横から一人の男が声をかけてくる。 「やあ、そこのかわいいお嬢さん」  見るからに軽薄そうな男が、馴れ馴れしい態度で近づいてきた。アイヴィーが最も苦手とする異性のタイプである。  できれば関わり合いになりたくなかったが、彼女の心情などお構いなしに男は勝手に喋り出した。 「絵のモデルになってくれる女の子を探してるんだけどさ、良かったらやってくれないかな? もちろんお礼はちゃんと弾むよ」 「ごめんなさい、私……そういうのには興味ないの」  聞いただけでいかがわしい話であるのは明白だ。適当に断って立ち去ろうとするが、男はアイヴィーの意思を無視して強引に腕を掴んでくる。 「やめて! 放して!」  全身に悪寒が走りアイヴィーは悲鳴を上げるも、男は腕を放そうとしない。  道行く人は関わりたくないとばかりに、誰もが目を合わせようとせずに過ぎ去っていく。 「つれないこと言わないで、ちょっとだけ付き合ってよ。服を脱いでくれるだけでいいからさ」 「そんなのお断りよ!」  好きでもない男に裸を見せるなど絶対に嫌だ。アイヴィーは泣きそうになりながらも、精一杯の抵抗をしてみせる。 (お願い、誰か助けて……!)  心の中で祈りを捧げたその時、男の体が勢いよく吹き飛んだ。  何が起きたのかわからず呆気に取られていると、背の高い細身の男がアイヴィーの隣に立った。どうやら彼が蹴り飛ばしたらしい。 「てめぇ、何しやがる!」  アイヴィーに絡んできた男は大声でわめき散らすが、相手の顔を見るなり表情を凍りつかせた。 「や、やあ……ディラン……さん……」  よほど恐ろしい人物なのか、名前を呼ぶ声もすっかり震え上がっている。  アイヴィーも恐る恐る顔を上げて、ディランと呼ばれた男を見やる。  表情は気だるげで無気力だが、赤い双眸には静かな怒りが宿っていた。 「お前の目は節穴か? この嬢ちゃん、嫌だって言ってるだろう。それとも、言葉の意味も理解できないぐらい馬鹿なのか?」 「い、いや……それは……」  男が何か言いかけたところで、ディランは気だるげな表情のまま銃口を向けた。 「何だ、この期に及んでまだくだらねぇ言い訳する気か?」 「ま、待ってくれ! 俺が悪かった! もうその子には手を出さないから! だからどうか、命だけは勘弁してくれ!」  男はすっかり怖気づいたようで、涙を浮かべてまくし立てる。 「だったら、さっさと消えな」  ディランが冷たく言い放つと、男は一目散に逃げ出した。  しつこく迫ってきたあの男を、あんなにもあっさりと撃退してしまうなど只者ではない。  アイヴィーが呆気に取られていると、ディランはふと思い出したように彼女に向き直る。  赤褐色の瞳に姿を捉えられた途端、なぜか頬が熱く火照って胸が急激に高鳴った。 「大丈夫か?」 「あ、はい。その……ありがとう、ございます……」  ちゃんと相手の目を見て礼を言わないといけないのに、なぜか変に緊張してしまい上手く目を合わせられない。  だが、ディランはさして気にした様子もなく、じっとアイヴィーを見下ろしてくる。 「嬢ちゃん、この街の人間じゃねぇよな?」 「はい。ここには……観光で来ました……」  さすがに魔界から来たなどと言うわけにはいかず、アイヴィーはもっともらしい返答をしてごまかした。 「ふぅん、観光ねぇ……」  ディランは訝しげにつぶやくものの、それ以上の追及をしてくることはなかった。 「まあいいや。ついて来な」  言うが早いか彼は、アイヴィーの返事を待たずに歩き出してしまう。 「あの、どこへ……?」  アイヴィーは慌てて後を追う。 「行きつけのバーだよ。さすがの俺も、嬢ちゃんを一人残して立ち去るほど、鬼畜じゃねぇからな。俺と一緒にいれば、まず襲われることはない筈だ」  言葉こそぶっきらぼうだが、ディランはアイヴィーを心配してくれているようだ。  二人は繁華街から外れて、人気のない路地にある一軒屋の前までやって来る。  そこがディランの行きつけのバーなのだろう。扉には『一見さんお断り』と書かれたプレートが掲げられていた。 (私が入ってもいいのかしら?)  アイヴィーの不安を察したのか、ディランは中に入る間際にこちらを振り返り、「俺と一緒にいれば問題ねぇよ」と言ってくれた。  まだディランをよく知っているわけではないが、危機を救ってくれた彼を信じて一緒に中へ入る。 「いらっしゃい、ディラ――」  バーの女主人はディランに声をかけるも、アイヴィーの存在に気付くなり絶句した。彼女だけではない。他の客も驚きの形相で二人をじっと見つめている。 「……何だよ、お前ら」  ディランは彼らを睨みつけながら、空いている席に腰を下ろした。 「そりゃあ、巷じゃ死神だの悪魔だのと恐れられているあんたが、そんなかわいい女の子を連れてやって来るんだもの。驚くのは当然でしょう」  女主人の言葉に同意するように、誰もがうんうんとうなずいてみせる。 「一体、どういう風の吹き回しですか? ディランさん、今まで一度も女に興味を示すような素振りを見せなかったのに」 「こりゃあひょっとしたら、明日の天気は嵐になるかもな」  客達から好き勝手に言われ、ディランは不快感をあらわにして顔をしかめる。 「うるせぇな。この嬢ちゃんがクズ野郎に絡まれていたところを助けただけだ。それ以上でもそれ以下の関係でもねぇよ」  不機嫌な態度の彼を冷やかすように、店内にどっと笑いが起きた。 「あ、あの……私、迷惑になって――」 「迷惑だったら最初から連れて来たりしねぇよ。ほら、おごってやるから何でも好きなの頼みな」  席を立とうとするアイヴィーを引き止めるように、ディランはメニュー表を彼女の目の前に置く。  助けられた上におごってもらうのは気が引けるが、せっかくの申し出を無下にするのは失礼だと思い、ディランの厚意に甘えることにした。  普段は酒を口にしないが、カクテルは比較的飲みやすいとアニエスが言っていたので、メニューにざっと目を通しただけですぐに決めてしまう。 「それじゃあ、フルーツカクテルを……」 「エイダ、フルーツカクテルといつもの頼む」  ディランは女主人に注文を伝えると、アイヴィーのことなどまるで眼中にないようにタバコを吸い始める。  先程は緊張からまともに目を合わせられなかったので、アイヴィーは改めて向かいに座る彼をじっと眺めた。  やや癖のある短い髪はグレーで、何の感情も読み取れない瞳は赤褐色。  年齢は四十過ぎぐらいといったところだろうか。なかなか端整な顔立ちをしており、若い頃も相当の美丈夫だったのだろうと容易に想像できる。  ワイシャツは第二ボタンまで開いており、襟元から覗く鎖骨や胸元がどことなく色っぽい。 (こうして改めて見ると、とてもかっこよくて素敵なおじ様だわ)  気付けばアイヴィーは、ディランに心を奪われていた。  しかし、当人はそんなことなど知る由もなく、タバコを吸いながら他の客と話をしていた。  そこへ女主人のエイダが酒の入ったグラスを運んできて、アイヴィーをほったらかしにしているディランをたしなめる。 「ちょっと、ディラン。せっかくのデートなんだから、少しは相手してあげなよ。彼女、寂しそうにしているじゃない」 「だから、そういう関係じゃねぇって言っているだろう」  煩わしそうに言葉を返すディランを見る限り、アイヴィーには少しも興味も抱いていないのがありありと感じられる。事実、彼は名前すら訊こうとしないのだ。 (私にもアニエスお姉様のような大人の色香があれば、おじ様も少しは関心を抱いて下さったのかしら?)  悲しくなって俯いていると、エイダが肩を優しく叩いてそっと耳打ちしてきた。 「見ての通り不愛想なおっさんだけど、根はいい奴だからね。ところで、あんたの名前は?」 「アイヴィーです」 「かわいい名前だね。あたしはエイダ、よろしくね」  エイダは屈託のない笑みを浮かべて右手を差し出した。 「はい、よろしくお願いします」  アイヴィーはそっと彼女の手を握り返す。  化粧っけはないが、気風の良い感じの女性である。年齢は三十代半ばといったところだろうか。 「ねえ、アイヴィー。良かったらうちで働かない?」 「わ、私がですか!?」  エイダの思いも寄らぬ申し出に、アイヴィーは驚きのあまり大きな声を上げてしまう。当然、店にいた客は何事かとこちらに注目する。 「見ての通りあたし一人で切り盛りしてるからさ、ちょうど人手が欲しいなって思っていたところなんだよね。ねっ、どうかな?」  エイダは期待に満ちた眼差しで、じっとこちらを見つめてくる。 「えっと……」  色欲の館を訪れた客に紅茶を出したことは何度かあるが、それだけでは客商売に役立つとは思えない。  返答に窮していると、ディランが見かねた様子で助け舟を出してくれる。 「エイダ、嬢ちゃんが困っているだろう」 「あ……」  ディランにたしなめられるなり、エイダは罰が悪そうに苦笑いを浮かべる。 「ごめんね、アイヴィー。あんたの意思も聞かないで、勝手に話を進めちゃって……。まあでも、無理にとは言わないけどちょっと考えてみてよ。返事はいつでもいいからさ」  エイダはアイヴィーに軽く目配せすると、踵を返してカウンターへと戻っていった。 「……ったく、エイダの奴。今まで誰も雇ってこなかったくせに、いきなり何を言い出すのやら……」  ディランは呆れたようにひとりごちた。 「嬢ちゃんも、無理なら無理だってはっきり断りなよ」 「はい、ごめんなさい……」  またしてもディランに助けられ、アイヴィーは申し訳なさから平謝りするばかりである。 「謝んなって。それより、せっかく来たんだから早く飲もうぜ」 「はい。それじゃあ、いただきます」  それからアイヴィーはグラスを手に取り、綺麗なローズピンクのカクテルを一口飲んだ。  次の瞬間、口の中にさわやかな酸味とフルーツの甘い味が広がっていく。 (何これ、すごく美味しい!)  幼い頃、ジュースと間違えて飲んでしまった赤ワインは、渋みがとても強かったのが今でも記憶に残っている。  その時のワインと比べると、このカクテルは格段に美味しくて飲みやすい。  元々、甘いものが大好きなアイヴィーは、あっという間にグラスの中身を飲み干してしまう。 「エイダさん。このお酒、とっても美味しいです」 「本当!? 他の客からは、ちょっと甘すぎるって不評だったんだけど、喜んでもらえて嬉しいよ! 良かったら、もう一杯どう?」 「お言葉は嬉しいのですが、今夜はもう遠慮しておきます」  本当はもっと飲んでみたい気もするが、まだ酒に慣れていない身だ。一杯でやめておくのが無難であろう。  しかしディランは、アイヴィーが遠慮しているのだと勘違いしたらしい。 「もう一杯ぐらいならおごってやるよ。それに、俺もちょっと飲んでみたくなったからな」  そう言うと彼は、断る間もなく二杯目を追加注文してしまう。  するとエイダは、二人が店に入って来た時よりも驚いたように、目を大きく見開いた。 「え? あんたも同じやつ飲むの? 甘いもの嫌いだったんじゃなかったっけ?」 「別に嫌いなわけじゃねぇ、苦手なだけだ」 「ははぁん。もしかして、このカクテルがアイヴィーの瞳の色と似てるから、飲んでみたくなったとか?」  エイダがからかいめいた笑みを向けると、ディランは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。 「馬鹿なこと言ってねぇで、さっさと持ってこい」 「はいはい、わかったよ」  エイダは笑いをこらえながら、二つのグラスにローズピンクの液体を注ぐ。 「あ、あの――」  二杯もおごってもらうことが申し訳なくて、アイヴィーはすかさず謝ろうとする。  だが、ディランは彼女の言葉を遮るように、人差し指で愛らしい唇を塞ぐのだった。 「あ……」  まるでキスをされたような錯覚を覚え、アイヴィーの頬は瞬時に赤く染まる。 「そうやってすぐに謝るのはよせ。何も悪いことしているわけじゃねぇんだからよ」 「ど、どうして私が……謝ろうとしているって、わかったんですか……?」 「嬢ちゃんの表情でわかる。こういう時は謝るんじゃなくて、礼を言うもんだろう」 「はい、ありがとう……ございます……」  アイヴィーがぎこちなく礼を言うと、ディランは満足げに口の端だけで笑った。  その表情を見ただけで、またしても胸がときめいて鼓動が高鳴っていく。 (私ったら、こんなにもドキドキして……。何だか変だわ)  きっと酒を飲んで、ほろ酔いしているせいだろう。そんな呑気なことを考えながら、アイヴィーは二杯目を呷るのだった。 「おいおい、嬢ちゃん。そんなに一気飲みして大丈夫かよ?」  その姿を見たディランが、唖然とした表情で声をかけてくる。 「平気ですよ。このお酒、甘くてとても飲みやすいので」  何をそんなに心配されているのかわからず、アイヴィーは首を傾げながらも安心させようとにこやかに答えた。  彼女自身は全く気付いていなかったが、この時には相当酔い始めていたのである。 「いや、飲みやすいからって油断していると、後から急に酔いが回ってくるんだよ」  尚も心配するディランをよそに、アイヴィーは彼の手を取り魅惑的な微笑を向けて、上機嫌になって喋り出した。 「それよりおじ様。私に絡んできた男をあっさり撃退するなんて、とてもお強いのね。おまけに、とてもかっこよくて……素敵で――……。私……わた……し……」  話の途中で急に呂律が回らなくなり、同時に意識も朦朧としてきた。 「おい、嬢ちゃん。大丈夫か!?」  ディランはすぐに異変に気付いたようで、アイヴィーの手を振りほどいてそばへ駆け寄ってくる。 「ごめんなさい。私ったら……おかしなこと……言ってしまって……。うっふふ――」  アイヴィーはひとしきり笑ったのち、意識を失ってディランの腕の中に倒れ込んだ。
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