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アイヴィーはひどい気だるさを抱えた状態で目を覚ました。
頭が痛くて体も重い。以前もこんな症状になったことがあるような気がするが、思考が働かないせいで思い出せない。
それでも何とか起き上がったところで、今いるのが自室のベッドでないことに気付く。
「ここは――」
アイヴィーはぼんやりする頭で周囲を見渡した。
必要最低限の家具しかない殺風景な部屋である。一体、なぜこんな場所にいるのだろうか。
回らない頭で考えていると、扉が開いて一人の男が入ってくる。
先刻、街で絡まれていたアイヴィーを助けてくれたディランだ。
(確か私、このおじ様とお酒を飲んでいた筈……)
そこまでは何とか思い出せたが、そこから先の記憶がなぜか抜け落ちていた。
「気付いたか。具合はどうだ?」
開口一番、ディランは気遣わしげに尋ねてくる。
「あまり……良くはないです……」
「だろうな。まだ顔色が悪い」
彼はベッドサイドに水の入ったグラスを置くと、ベッドの縁に腰を下ろしてアイヴィーに向き直った。
「あの、ここは一体……?」
「俺の部屋だよ」
「おじ様の部屋……」
一体どういう経緯で、ディランの家に来ることになったのだろうか。
アイヴィーの疑問を感じ取ったのか、ディランは事情を語って聞かせてくれる。
「嬢ちゃんがエイダの店で酔いつぶれて意識を失ったから、介抱するために俺が連れ帰ってきたんだ」
「う、嘘……!? 私、また――」
「またって……嬢ちゃん、前にも酔いつぶれて倒れたことあるのか?」
ディランの問いにアイヴィーは無言でうなずくと、幼い頃に誤ってワインを飲んで泥酔し、そのまま意識を失って倒れたことを打ち明けた。
「……呆れて返す言葉もねぇよ」
「ごめんなさい……」
ディランに迷惑をかけたことへの申し訳なさと、みっともない姿を見せてしまった気恥ずかしさから、アイヴィーはまともに顔を上げられなかった。
「最初に確認しなかった俺も悪いが、嬢ちゃんもうかつ過ぎるぜ。たった二杯で泥酔するほど酒に弱いくせに、何でノンアルにしなかったんだ?」
「カクテルは……お酒が苦手でも飲みやすいって、姉から聞いていたので……」
「確かにカクテルは口当たりがいいから飲みやすいが、その反面アルコール度数が高いのもあるからな。さっき嬢ちゃんが飲んでたのも、あんな甘い味でもかなりきつめのやつだよ」
「そうだったんですね……。私ったら、何て馬鹿なのかしら……」
アイヴィーは深いため息をつき、自身の浅はかさを嘆いた。
今回もまた、聞くに堪えないような恥ずかしいことを言ってしまったに違いない。それをディランやエイダだけでなく、他の客にも聞かれたのだと考えると、羞恥心のあまり消えてしまいたくなる。
アイヴィーがいつまでも俯いていると、ディランは頭の上に手を置いて優しく撫でてくれた。
「そう落ち込むなよ。嬢ちゃんの酔いつぶれ方なんて、まだかわいいもんだよ。中にはもっとひどい奴もいるからさ」
彼がこうして気遣ってくれるのが嬉しくて、それだけでアイヴィーは救われたような気分になる。
それからディランは、先程までとは打って変わって真摯な眼差しを向けてくる。
「だが、次からは本当に気をつけろよ。中には酒に酔わせてから犯そうと企むクズ野郎もいるからな」
「はい……」
光に属する天使と闇に属する悪魔がいるように、人間にも善人と悪人がいる。誰もがディランのように、親切にしてくれるとは限らないのだ。
(今夜はずっと、おじ様に助けられてばかりだわ)
正体を知らないとはいえ、ディランは淫魔であるアイヴィーに優しくしてくれた。彼にはいくら感謝してもしきれない。
アイヴィーはディランに向き直ると、穏やかに微笑んで丁重に謝意を伝える。
「おじ様、色々とありがとうございました。後は帰ってゆっくり休みます」
これ以上は迷惑をかけたくない。まだ気だるさは抜けていないが、歩けないほどではない。
しかしディランは、体調が万全でないアイヴィーを気にかけているようで、ベッドから出るのを許さなかった。
「待てよ。無理せず一晩ここで休んでけって。俺はリビングのソファーで寝るから」
ディランの気遣いはありがたいが、一晩も彼のベッドを占領するわけにはいかない。それに、アイヴィーがいつまでも帰らないとなれば、一緒に来たアニエスだって心配する筈だ。
「そんな……これ以上、おじ様には迷惑をかけられません。私なら……大丈夫ですから……」
「何言ってやがる。全然、大丈夫に見えねぇぞ。それに、迷惑だと思ったらわざわざ連れ帰って、介抱したりなんかしねぇよ」
「でも――」
尚も申し出を断ろうとすると、ディランによって強引にベッドに押し倒される。
「や……っ」
彼の大胆すぎる行動に、アイヴィーは動揺のあまり固まってしまう。
愛読書の中にも、こういったシチュエーションがたびたび出てくるが、よもや今ここで押し倒されるとは思わなかった。
心臓がバクバクと激しい音を立てている。その鼓動がディランにも聞こえていたらどうしようと、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になった。
アイヴィーは何とか身をよじって逃げようとするも、思いのほか強い力で押さえつけられていてビクともしない。
それから程なくして、ディランは唇が触れそうになるぐらい顔を近づけてくる。
(どうしよう、すごく近いんだけど……!)
ここまで間近に迫られたのは初めてだ。今まで異性に触れられたことのないアイヴィーは、次は何をされるのだろうかと身構えてしまう。
「……いいから大人しく寝てろ」
ディランはただ一言、低い声音でささやきかけてきた。
その刹那、体が熱く火照って下肢の中心が疼き始める。
このまま押し倒された状態でいたら、淫魔としての本性が開花してしまいそうだ。
自身の異変を悟られないよう、アイヴィーは努めて平静を装いながら小さくうなずく。
「は、はい……」
アイヴィーの返事を確認すると、ディランはようやく体を離してくれた。
解放されて安堵する一方で、なぜか寂しさにも似た感情が込み上げてくる。
「……悪かったな、乱暴な真似しちまって。怖かっただろう?」
「い、いえ……そんなことは――」
動揺はしたものの、怖いとは少しも思わなかった。
するとディランが突然、アイヴィーの手を握り指先でそっと触れてくる。
「っ――!?」
その指の動きが妙に艶めいており、彼女は思わずビクッと体を震わせた。
辛うじて声は出さなかったものの、過剰なまでに感じてしまったせいか鼓動は先程よりも更に激しく鳴り響いている。
「無理に強がるなよ。こんなに震えてるぜ」
まるでアイヴィーの反応を愉しむように、ディランは悪戯っぽく笑ってみせる。
彼のその微笑が何とも魅力的で、アイヴィーはため息をついて見惚れてしまうのだった。
「冗談はこのぐらいにして、俺はそろそろ寝る準備でもするよ。嬢ちゃんもゆっくり休めよ」
ディランは彼女の頭を軽く撫でてから、おもむろに立ち上がり部屋を出て行く。
一人になってしばらく経ってからも、胸の高鳴りが収まる気配はなかった。
ディランに押し倒された瞬間、アイヴィーは色々と淫らな妄想をしてしまった。そればかりか、あのまま抱かれることを望んでいたのである。
そのせいで体がいつもより敏感になり、ほんの少し触れられただけで反応したのだった。
(もしかして私、おじ様に恋をしているの?)
そうでなければ、こんなにも胸がときめくなどあり得ないだろう。
アイヴィーは初めて抱く感情に戸惑うばかりで、正直まだ自分が恋をしているという実感が湧かない。
だが、一目見ただけでこんなにも心惹かれるのだから、これは恋心を抱いているという何よりの証拠だ。
それに、ディランに押し倒されたり触れられたりしても、不快感など微塵も抱かなかった。言い換えれば、相手が彼だからこそ好ましく感じられたのだ。
これがもし他の男だったら、間違いなく拒絶していたところであろう。
(あのおじ様こそ、私の運命の人なんだわ! こんなにも心がときめくんだから、きっとそうよ!)
種族の違いや契りのことなど、考えなければいけない問題は色々ある。しかし、ここへ来てようやく巡り会えたのだ。この機会を絶対に逃すわけにはいかない。
喜びと期待と淫らな願望を胸に抱きながら、アイヴィーは甘美な夢の世界に浸るのだった。
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