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第二章 ~恋は七転び八起き~
魔界に帰ってきてから、アイヴィーは毎日ディランのことばかり考えて過ごしていた。
小説を読んでいる時もヒロインの恋人を彼に置き換え、性行為の場面に至っては自身が抱かれているところを妄想するほどだ。
その影響もあるのだろう。ディランに甘い言葉をささやかれては、体を淫らに愛でられるという淫靡な夢まで見るようになった。そして朝起きると必ず、足の付け根まで淫蜜にまみれているのである。
これまでにも、夢の中で感じてしまうことは何度かあったが、ディランと出会ってからはずっとこんな調子だ。
四六時中、頭の中で甘く淫らな時間を愉しむアイヴィーのことを、口さがない姉達がいつものように陰で嘲笑う。
「あの子、また妄想の世界に入り浸っているの?」
「真実の愛なんてもの、この魔界には存在しないのに懲りない子ね」
「本当、馬鹿みたい。いつまで夢見るお姫様の気分でいるのかしら」
以前のアイヴィーであれば、姉達の心ない言葉の数々に傷ついていたが、今ではもはや些細なことに過ぎなかった。
そして何より今日は、助けてくれた礼をしにディランの元へ行くと決めたのだ。自身と考えや価値観が相容れない者の相手を気にしている暇などない。
(おじ様、どういう反応を見せてくれるかしら)
ディランに一目惚れしたアイヴィーだったが、向こうも同じ気持ちでいるとは限らない。
期待と不安を胸に抱きながら、彼女は魔界と人間界をつなぐ魔方陣を出現させる。いつでも自由に行けるようにと、以前アニエスが描いてくれたものだ。
転移魔法を唱えて移動すると、次の瞬間にはもうディランが暮らすリーブスへと降り立っていた。
人間界の所々には、魔界や天界と通じている次元回路が点在する。
自分達闇の眷属はもちろん、天使と呼ばれる光の眷属は皆、そこを通って自由に行き来しているのだ。
これまで姉と共にいくつかの人間界の街を訪れてきたが、特にリーブスは魔界に近いように感じられた。
そのためかこの街の空気はとても心地良く、魔界の住人が過ごしやすい環境と言っても過言ではない。
(これで天気が良かったら、もう最高の気分だったんだけど……)
アイヴィーは建物の軒下に入り、憂鬱な面持ちで空を見上げていた。
今日のリーブスの天気は雨だった。嵐とまではいかないが、降水量はかなり多いほうである。
人間界とは違い、年がら年中黒雲に覆われている魔界では気候の変化がないため、当然ながらアイヴィーは傘など持っていない。
もうこのまま帰ろうかと迷っていると、通りの向こうから黒い傘を差した人物が歩いてくるのが目に入る。
このあいだのように、また絡まれたらどうしよう――先日の恐怖が蘇りアイヴィーはすかさず身構えるが、よく見るとその人物はディランだった。
「おじ様!」
アイヴィーは嬉々とした声音で呼びかける。
するとディランは立ち止まって彼女の姿を確認し、すぐにそばまで駆け寄ってくる。
「こんな所で何してる? もしかして、傘持ってねぇのか?」
「はい、そうなんです……」
アイヴィーは苦笑いを浮かべてうなずいた。
こんなに雨が降っている中、傘を持っていないなど不審に思われたに違いない。
(まさか、魔界から来たなんて言うわけにもいかないし……)
そもそも本当のことを言ったところで、信じてもらえる可能性は限りなくゼロに近い。
どう言い訳したものかと頭を抱えていると、突然ディランに腕を掴まれてそのまま引き寄せられてしまう。
「お、おじ様!?」
ほとんど体が密着してしまいそうな距離に、アイヴィーの胸の鼓動は一気に高鳴った。
「どうせまた、迷惑をかけたくないからとか言って、遠慮するんじゃないかと思ってな」
「あ、ありがとう……ございます……」
それから二人は同じ傘に入り、雨の中の街道を歩いた。
(まさか、おじ様と相合傘することになるなんて……!)
思いも寄らぬ至福の一時に、アイヴィーは頬を薔薇色に染めて微笑んだ。
いっそのこと、このままディランの腕に手を回したい。しかし、まだ恋人同士でもないのに、そんなことして許されるのだろうか。
(いくらおじ様が優しくしてくれるからって、勝手に甘えるのは良くないわよね……)
アイヴィーはしばらく考えたのち、恐る恐る隣を歩くディランに話しかけた。
「あ、あの……」
「何だ?」
だが、いざとなると恥ずかしさが込み上げてきて、その先を言葉に出すのをためらってしまう。
「いえ、やっぱり……何でもないです……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
ディランは少し苛立った様子で続きを促してくる。
こうなったらもう、何でもいいから言うしかない。
「あの……何度も助けて下さり、ありがとうございます」
「どうした? 急に改まって礼なんか言って」
再び感謝の気持ちを伝えるアイヴィーに、ディランは怪訝な眼差しを向けてくる。
「私、おじ様にきちんとお礼をしたくて。どんなことでもしますので、何かお礼をさせて下さい」
その言葉に嘘偽りはなかった。ディランに体を求められたら応えるつもりだし、純潔だって捧げる心構えでいた。
しかしディランの口から告げられた言葉は、あまりにも非情で冷たいものだった。
「そんなこと、わざわざしなくていいよ。俺は別に、見返りを求めて嬢ちゃんを助けたわけじゃねぇから」
「そんなつもりで言ったわけじゃ――」
アイヴィーは慌てて弁明しようとするが、皆まで言う前にディランに遮られてしまう。
「それに、相手のことをよく知りもしないくせに、何でもするなんて軽々しく言うのはよせ」
その言葉が的を射ていたので、アイヴィーはそれ以上言えなかった。
確かにディランのことはほとんど知らない。それでも彼が自分に向けてくれた優しさは、間違いなく本物であると信じたい。
だが、そんなアイヴィーの想いを打ち砕くように、彼は間一髪入れずに容赦ない言葉を投げかけてきた。
「どこから来たのか知らねぇが、いつまでもこんな街にいないほうがいい。あと、俺と関わるのもこれっきりにしろ。嬢ちゃんが思っているほど、俺は善良な人間じゃねぇから」
何の感情も込められていない赤褐色の双眸は、まるでアイヴィーを拒絶しているように見えた。
「……ごめんなさい。私、もう行きます」
このままずっと一緒にいたら、間違いなく泣いてしまうだろう。
アイヴィーは動揺を悟られまいと、無理矢理笑顔を作って雨の中を駆け出した。
その直後、ディランに呼び止められたような気配がしたが、振り返ることなく来た道を引き返すのだった。
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