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一体どうすれば、ディランに振り向いてもらえるのだろうか。
アイヴィーがこんなにも彼に恋焦がれているというのに、向こうは全くと言っていいほど興味関心を示していない。
雨の日のことを思い出せば一目瞭然だ。
あの日のディランの態度は素っ気なく、ベッドの上で優しく介抱してくれた時とはまるで別人のようだった。
それだけではない。彼の言葉の端々からは、拒絶の意思がはっきりと伝わってきたのである。
よもやあんなに冷たくされるとは思わず、アイヴィーの心に深い傷が刻まれることとなった。
その後も何度か彼に会いに行ってみたが、そのたびに冷たくあしらわれては全く相手にしてもらえない日々が続いている。
アニエスに相談すれば間違いなく、諦めて別の男を探すよう勧められるだろう。だから姉の前では何でもない風を装い、部屋で一人寂しく思い悩んでいるのだ。
あれだけ冷たくされたにも拘わらず、アイヴィーはどうしてもディランを諦めきれなかった。
だが、今はもう完全に行き詰ってしまっている。一体、ディランがなぜあのような態度を取るのか、まるで見当がつかない。
(やっぱりおじ様から見れば、私はまだ子供ってことなのかしら……)
煽情的な体型に対して顔立ちはあどけないので、幼く見られても仕方がないのかもしれない。
それでもやはり、好きな男性に見向きもされないのは悲しい。
「はぁ~、おじ様……」
アイヴィーがため息交じりにつぶやいた時、アニエスが部屋に入ってくる。
「そんなにその男のことが忘れられないのなら、どうして初めて会った日のうちに体をつなげなかったのよ? ついでに他の女に取られないよう、契りを交わしてしまえばよかったじゃない」
アニエスは恋煩いの妹に呆れた眼差しを向ける。
二人でリーブスに出かけた翌日、朝帰りをしたアイヴィーは姉の質問攻めに遭い、その過程でディランのことや彼に助けられた話をした。
当然ながら男女の営みについても訊かれたが、まだ抱かれていないことを正直に答えると、なぜ誘惑してでもモノにしなかったのだと怒られたのだ。
姉の言う通り、アイヴィーもその気になれば淫魔としての能力を発揮して、ディランを虜にすることもできた。
しかし、まだ処女である彼女にそこまでする勇気はなく、ましてや初恋の相手にふしだらな女だと思われたくなかった。
「この前も言ったけど、おじ様は私を助けて下さったのよ。それなのに、誘惑してたぶらかすような真似、できる筈ないわ」
「私があなたの立場だったら、さっさとモノにしちゃうけど。私達は淫魔なんだから、貞操観念なんてくだらない考えは必要ないでしょう。だから早いところ、その男を誘惑して虜にしてしまいなさいよ」
淫魔に限らず、この魔界で暮らす者は貞操観念など持たず、己の欲望に忠実に生きている。
欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れ、邪魔な者は力づくで全て追い落とす――それこそ、弱肉強食の社会である魔界で生き抜くためのルールだ。
だからアニエスの言い分にも一理あるのだが、それでもアイヴィーは強引に自身のものにするという考えに賛同できなかった。
何せ恋の相手は人間の男性だ、魔界の理念が通用する筈がない。
それに、今まで読んできた恋愛小説のヒロインも、男性に恋心を抱いたからといって誘惑するような真似はしていなかった。やはり人間界では、節操のない女性は好かれないということなのだろう。
それならば、淫魔といえど人間界のルールに従う他あるまい。
「アニエスお姉様のアドバイスは嬉しいけど、やっぱりおじ様に嫌われたくないから……。せっかく私のためを思ってくれているのに、ごめんなさい……」
「謝らなくていいのよ。これはあなたの恋なんだから、どうするかはあなたが決めることよ。たとえ誘惑なんかしなくても、あなたの愛らしい魅力できっとメロメロになってくれると思うわ」
「う~ん、それはどうかしら。おじ様は私に興味がないみたいなのよね……」
そのことをアニエスに話すと、彼女は困惑した様子で眉をひそめる。
「淫魔を前にしても全然なびかないなんて、それはまたずいぶん手強い相手ね。というか、あなたも何でそんな男を好きになったのよ?」
「それは、その……すごくかっこよくて素敵で、淫魔の私にもあんなに優しくしてくれたから……」
だからアイヴィーは、ディランになら全てを捧げても構わないと、心の底から本気で思った。
彼が自分に興味を持っていないと知った今でも、その気持ちは変わらないどころかますます強くなるばかりである。
「やっぱり私では、大人の魅力溢れるおじ様に不釣り合いなのかしら?」
姉がその答えを知る筈などないのだが、それでも訊かずにはいられなかった。
「そんなに気になるなら、その男をよく知る人間に話を聞いてみたらどうなの? 友人の一人や二人ぐらいはいるんでしょう?」
「おじ様をよく知る人……」
アニエスの言葉を反芻したところで、アイヴィーの脳裏にある人物の顔が浮かび上がる。
路地裏の小さなバーを切り盛りする、気風の良い女主人エイダである。
(エイダさんなら、色々と教えてくれるかもしれないわ)
彼女はどういうわけかアイヴィーを気に入ったようで、良かったら店で働かないかと誘ってくれた。
あのバーで働けばディランに会えるし、彼の人となりを知ることもできる。働いたことなど一度もないので上手くやれる自信はないが、ディランと深い仲になるまたとない機会を逃すわけにはいかない。
「アニエスお姉様。私、今から出かけてくるわ。もしかしたら、朝まで帰らないかもしれないけど、心配はいらないから」
「良かったら、また私の服を貸してあげましょうか?」
「ううん、今日は自分の好きな服を着ていくわ」
アニエスが力になろうとしてくれているのは嬉しいが、またあのセクシーなドレスを着るのはさすがに気が引けた。
それに、娼館ならともかく普通のバーで働くのに、露出度の高い衣装で接客するのは不謹慎だろう。
「そう、残念だわ。せっかく似合ってると思うのに……」
何も知らないアニエスは、がっくりと肩を落とす。
「あっ! 別にお姉様のセンスを否定しているわけじゃないのよ。ただ、私はやっぱりフリルやリボンのついた服が好きってだけで――」
アイヴィーが慌てて言い訳をすると、姉はにっこり笑いながら「そんなに気にしなくていいわよ」と言葉を返した。
「まあ、とにかく頑張りなさい。あなたはとてもかわいくて魅力的な子だから、その男もすぐに好きになってくれるわよ」
アニエスは軽くウィンクをすると、踵を返して部屋を出て行く。
その際、テーブルに液体の入った小瓶を置いていった。
「これってまさか――」
アイヴィーは瓶を手に取り中身を確かめる。
濃い紅色の液体からは、薔薇に似た甘い香りが漂ってくる。淫魔が持つ魔のフェロモンで作られた媚薬だ。
どうしても駄目な場合に使えということなのだろう。
この媚薬を一滴でも口に含めば、どんな相手でも惚れさせることができる。ただし、人間相手にもこれを使えるかは不明だ。
試したことのないものを使って、ディランの身を危険に晒したくないし、何より彼に失望されたくない。
(媚薬なんかに頼らなくても、必ず恋を成就させてみせるわ!)
アイヴィーは小瓶を引き出しにしまうと、ディランへの想いを胸に転移魔法を唱えるのであった。
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