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エイダの懇切丁寧な指導の元、アイヴィーは開店準備に取り掛かった。
「この店、『ブラッディ・ムーン』っていう名前なんだけど、アイヴィーはどう思う?」
「とても素敵な名前だと思います」
「良かった~。他の連中ときたら仰々しい名前だって言うもんだから、そんなにあたしのネーミングセンスが悪いのかなって、ずっと気になってたんだよね~」
初めて働くアイヴィーを気にかけているようで、こうして雑談を交えながらエイダは全面的にサポートしてくれた。
そのおかげもあってか、開店後も大きな失敗をすることなく順調に進められ、客からもすぐに気に入られた。
だが、その中にディランの姿はまだない。
エイダや他の客によれば、彼が来るのは比較的遅いとのことだった。しかし、このまま来なかったらどうしようという不安ばかりが募り、アイヴィーは表情を曇らせる。
「あんたさっき、働いたことがないって言ってたけど、その割にはけっこう要領いいじゃない」
「本当ですか?」
「うん。だからもっと自信持ちなよ」
「ありがとうございます」
アイヴィーは感極まった様子で礼を言う。
魔界では散々、淫魔のくせに性行為もできない役立たずの存在と揶揄され、肩身の狭い想いをしてきた。それがこうして生まれて初めて認められ、アイヴィーはたまらず嬉し涙で目を潤わせる。
(こんな風におじ様からも感謝されたら……)
アイヴィーがディランのことを思い浮かべていると、エイダは意味ありげに笑いかけてきた。
「ところで、あれからディランとはどうなの? あのおっさんに気があるんでしょう?」
「どうして……私がおじ様のことが好きだと……?」
まだエイダには打ち明けていないのに、よもや見抜かれていたとは思わずアイヴィーは恥ずかしさから頬を赤らめた。
そんな風にうろたえる彼女を見て、エイダは声を立てて可笑しそうに笑う。
「あんた達の関係、あたしらの間で噂になってるんだよ。ディランも、あんたにすっかりメロメロだしね。あのおっさんがいない時は、みんなで笑ったりしてるんだ」
「おじ様が……私に……?」
先日会った時のディランの態度からは、とても自分に好意を抱いているようには感じられなかった。だからエイダの言葉を聞いても、アイヴィーはどうも釈然とせず首を傾げるばかりである。
「どうしたの? 怪訝そうな顔して」
「エイダさんの話を聞いても、おじ様が私のことを好きだとは思えなくて……」
そう言うとアイヴィーは、先日のことをエイダにも打ち明けた。
「あのおっさん、まだそんなこと言ってるの? いい年して大人げないんだから……」
エイダは信じられないとばかりに肩をすくめる。
「心配することないよ。思春期の子供と同じで、大好きなあんたを前にして決まりが悪くなったから、つい素っ気ない態度を取っただけだと思うよ。この前なんて、あたしがちょっとからかったらすごい怖い顔で、殺してやるからなって言っちゃってさ。いやぁ、あれは本当に可笑しかった~」
腹を抱えて大笑いするエイダだったが、話だけ聞くとディランが本気で殺すと言っているように思えて、とてもじゃないが笑えなかった。
ひとしきり笑ったところで、エイダは真顔になって話を切り出す。
「まあでも、いい加減この辺りでガツンと言ってやらないとね。アイヴィーだって、このまま冷たくされるのは嫌だろう?」
「はい」
正直、自分ではディランに見向きもされないのだろうかと、心が挫けそうになったほどである。
だが、それでも諦めなかったのは彼に本気で恋をしているからだと、アイヴィーは強く確信していた。
そんなアイヴィーの心情を読み取ったのか、エイダは優しく笑いかけてくる。
「あたしにできることなら、何だって協力するよ。だからどんな些細なことでも、遠慮しないであたしを頼っていいからね。もちろん、みんなもアイヴィーに協力するだろう?」
エイダが同意を求めるように問いかけると、客達は全員首を揃えてうなずいた。
「それじゃあ早速、おじ様のことを教えて下さい。私、まだ彼のことを何も知らなくて……」
恋を成就させるためにはやはり、相手を知ることから始めるべきだろう。
「あのおっさん、自分のことあんまり人に話したがらないからね。特にあんたには、今の自分の仕事を知られたくないと思っているだろうし」
エイダの意味深な言葉に不安を覚えるが、それでもアイヴィーはどんな内容でも聞く覚悟を決める。
「一体、何をされている方なんですか?」
「普段はフリーで車の修理とかしながら生計を立ててるけど、本業は殺し屋だよ。しかもかなりの腕前で、巷では死神や悪魔と恐れられているほどさ」
「殺し屋……」
確かにそれは他人に知られたくない職業だろう。しかしその一方で、妙に納得できる部分もあった。
「あれ? そんなに驚かなかった? まあ、この街は治安が悪いから自然とまともじゃない人間が集まってくるし、何より今いる客の中にも殺し屋をやってるのがいるからね。別に意外でも何でもなかったか」
「いえ。私に絡んできた男の怯え方が尋常じゃなかったので、おじ様が只者ではないというのは何となく察しがつきました」
「う~ん。その時のディランが怖かった理由は、それだけじゃないと思うけど」
「それはどういう――?」
アイヴィーがそう問いかけても、エイダは意味ありげに笑うだけで答えてくれない。
「他に知ってることといえば、元軍人だったってことぐらいかな。ねぇ、今あたしが話したこと以外で、誰かディランのこと知ってる奴いる?」
その後もエイダはアイヴィーのために、客達からもディランに関する情報を集めようとしてくれる。
すると意外にも、彼らから多くの情報を得ることができた。
「士官学校はかなり優秀な成績で卒業したとか」
「格闘術にも長けてて、すごく強いわよ」
「珍しい銃を持っていたな。どこで入手したのか訊いても、教えてくれなかったけど」
「早くに親を亡くしたから、天涯孤独だって聞いたことがある」
家族の話題が出たところで、アイヴィーの中にある気がかりなことが生じる。
「あの、おじ様に付き合っている人とかは……?」
強くて容姿端麗で大人の色香を漂わせるディランなら、多くの女性を惹きつけるだろうし声をかけられることだってある筈だ。
「安心しなよ、ディランにそういう相手はいないから。おまけに結婚歴もないし」
妻子や恋人がいないとわかり、アイヴィーは安堵のため息をつく。
これならまだ十分に、ディランを振り向かせるチャンスはありそうだ。
「噂をしていれば来たみたいだぜ」
客の言葉を頼りに入り口を見やると、ちょうど店に入ってきたディランと目が合った。
本来であれば、待ち望んでいた相手と出会えて喜ぶべきだろう。しかし、ずっと冷たくあしらわれてきたので、怖いという気持ちのほうが遥かに大きかった。
「おい、冗談だろう……」
よもやアイヴィーが本気で働くとは思っていなかったのだろう。彼女の姿を見たディランは明らかに動揺を見せていた。
(やっぱり、私には会いたくなかったのかしら?)
考えた途端にいたたまれなくなり、言いようのない切なさが込み上げてくる。
そんなアイヴィーの心中を代弁するように、エイダがすかさずディランを非難する。
「ちょっと何なの、その反応は。せっかくアイヴィーが働いてくれることになったのに、そんな嫌そうにしなくたっていいじゃない」
「別に嫌だとは一言も言ってねぇだろう。まさか本当に働くとは思わなかったから、驚いただけだ」
「だったら、もう少し愛想よく振舞えないわけ? これじゃあ、アイヴィーがかわいそ過ぎるよ」
悲しげに目を伏せるアイヴィーを見て、自身の態度がまずかったと思ったらしい。ディランは素直に非を認めて彼女に謝罪する。
「悪かったよ、嬢ちゃん。俺は嫌だなんて全く思ってねぇから、嬢ちゃんも迷惑だなんて思わないでくれよ」
「はい……」
ディランに嫌われていないのだとわかり、アイヴィーはひとまず胸を撫で下ろした。
「それじゃあ、エイダ。いつものやつを頼む」
「その前に、あんたにはちゃんと言っておかないと」
「は? 何だよ?」
エイダの言葉にディランは訝しげな表情を浮かべる。
「アイヴィーから聞いたよ。あんた、おっさんのくせに本当に大人げないんだから。この子がお礼をしたいって言ってるのに、何で素直にそれを受け取れないわけ?」
「何でって、別に俺は見返りを求めて助けたわけじゃねぇからだよ。そもそもあの程度、礼をしてもらうほどのことじゃねぇし」
「そういう問題じゃないだろう。こういう時はちゃんと、アイヴィーの気持ちを汲み取ってあげるのが筋ってもんだよ。というわけで、冷たくしたお詫びにデート一回してあげな」
「えっ? デート……?」
本当に実現するのであれば喜ばしいことだ。しかし、ディランは同意してくれるのだろうか。
期待と不安が入り混じった眼差しで、アイヴィーは恐る恐る彼を見やる。
「エイダ。お前、何勝手に決めてやがる……」
案の定、ディランは完全に迷惑顔である。
(知り合って間もないのにいきなりデートなんて、そんな都合の良い話あるわけないわよね……)
アイヴィーが肩を落としかけた時、客達は次々とエイダの言葉を支持し始めた。
「いいじゃないですか、ディランさん。こんなかわいい女の子とデートできる機会、めったにないですよ」
「そうよ。アイヴィーちゃんのためにも、デートしてあげなさいよ」
「何なら、おすすめのデートスポットでも教えてやろうか」
彼らの意見を聞いたエイダは、勝ち誇ったように笑ってみせる。
「ほら、みんなもこう言っていることだし、これでもう断ることはできないよね?」
「……あぁ、わかったよ。とりあえず、来週の日曜にでも予定を空けておくから」
渋々といった様子ではあるが、ディランはとりあえず承諾してくれた。
「ありがとうございます……」
アイヴィーは申し訳ないと思いつつも、内心では憧れの男性とデートできる喜びが大半を占めていた。
「良かったじゃない」
「あなたの恋、応援してるわよ」
エイダや他の客も一緒に喜んでくれる中、ディランは痺れを切らした様子で声をかける。
「ところで、俺の酒はいつ持ってきてくれるんだ?」
「はいはい、今用意するよ」
盛り上がっているところに水を差され、エイダは心底面白くなさそうに酒を注いだ。
「それじゃあ、アイヴィー。これをディランのいる席まで持っていってくれるかい?」
ディランに接する時とは打って変わって、エイダは人懐こい笑顔をアイヴィーに向ける。
「はい」
アイヴィーはグラスをトレイに乗せて、ディランの元まで運んでいく。
「あの、どうぞ……」
他の客と話す時は普通に振舞えたのに、相手がディランだとドキドキしてしまって自然に声が小さくなってしまう。
「ありがとうな、嬢ちゃん」
ディランに感謝の言葉をかけられ、アイヴィーは嬉しさのあまり表情を綻ばせる。
(おじ様にお礼を言われたわ……!)
輝くような笑顔を浮かべる彼女を、誰もが惚けたような眼差しで見つめていた。
「初めての仕事で疲れただろう? ひとまず落ち着いたから、そろそろ休憩にしようか。良かったらこれ食べてよ」
事前にまかないを用意していたらしく、エイダはカウンターの奥からサンドイッチを持ってくる。
「そうだ。せっかくだから、ディランと一緒の席で食べなよ。ディラン、いいよね?」
「もう好きにしろ……」
どうせ拒否したところで、またあれこれ非難されると判断したのだろう。ディランは半ば諦めた様子で返事をする。
「そういうわけで、ごゆっくりどうぞ。時間とかは気にしなくていいからね」
「はい」
アイヴィーは満面に笑みを浮かべてうなずくと、まかないのサンドイッチを持ってディランの元へと向かった。
「あの、おじ様。色々とありがとうございます」
それから席に着くなり、真っ先に彼に礼を言う。
「何が?」
「えっと、その……先日、助けてくれたり……デートに承諾してくれたりと……」
「さっきも言っただろう、別に礼を言われるほどのことじゃねぇと。デートを承諾したのは、他の奴らがうるさいからだ」
気恥ずかしげに話すアイヴィーに対し、ディランは相変わらず素っ気ない態度である。
エイダからは、元々こういう人間だと聞いているものの、やはりどう見ても彼が自分に興味があるとは思えない。
その後は特に言葉を交わすことなく、アイヴィーは黙々とサンドイッチを口に運んでいく。
「……それにしても、嬢ちゃんも酔狂者というか、変わってるというか……」
不意に、ディランは独り言のようにつぶやく。
「え? 私、そんなに変わってますか?」
淫魔の中では異端者であるのは、アイヴィー自身も認めている。しかし、ディランを始めエイダや他の客にも明かしていないので、彼女の正体を知る者はいない筈だ。
言葉の真意を測りかねていると、ディランは淡々と話を続けていく。
「俺みたいな中年の男のどこがいいんだ? 嬢ちゃんみたいなかわいい子なら、俺よりももっと若くていい男がふさわしいだろうに」
どうやら変わっているというのは、アイヴィーの好みのことを指しているらしい。
「そんなこと……ないと思いますが……」
どう返事をしたらいいかわからず、アイヴィーは曖昧に笑って言葉を濁した。
これまでにも、美しい容姿の男性に出会ったことはあるが、いずれも心強く惹かれたことなどなかった。
自分にふさわしいかどうかはともかく、アイヴィーがこんなにも夢中になった男性は、ディランだけである。
今すぐにでもこの想いを彼に伝えたいところが、他の人間がいる中で告白するのはためらわれた。
「私からも訊きますけど、おじ様はどういう女性が好みなんですか?」
告白の代わりに気になっていたことを尋ねると、ディランはなぜか可笑しそうに笑う。
アイヴィーはたちまちその笑みに魅了され、見惚れるあまり言葉を失ってしまった。
「何だ? もしかして、嬢ちゃんが好みだって言ってほしいのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
そんな恥ずかしいこと、口が裂けても言える筈がない。
「今の答え、気が向いたら教えてやるよ。デートの約束は必ず守るから」
完全にディランのペースに飲み込まれ、アイヴィーには口を挟む余地もなかった。
そして今度こそ、この日の彼との会話は完全に終わってしまった。
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