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◇
恐らく河の流域一帯、水土の行き来する範囲に延々と続いていたのだろう長雨が止んで、店にもぽつぽつとものが入るようになってきた。行商に聞けば、このあたりで流行っていたやっかいな病も、潮の引くように消えていったと。
「ご免ー」
すっかり気力を取り戻した妻が、店先からかけられた声にはあい、と歌うような調子で返事をして、よたよたと出ていく。いっときは子どものように痩せ細っていた彼女の背中やふくらはぎは、今いくぶんふっくらと肉が戻ってきていた。
「あんれ! どうも!」
そして妻の素っ頓狂な声に、私もいそいそと店先へ出た。見れば、いつもの竜之歯ぶらしの職人が、それをえっちらおっちら勘定台わきの小上がりに広げるところだった。身重の奥方さんは座っててくれや、と職人は言うが、妻はいったん引っ込んで、そして職人につめたいお茶を出した。
「これな、」
妻は、こらえきれぬ様子で職人に話しかける。
「たぶんうちのお鎮守さまがお使いになるんですよ」
なぜかほこらしげにそう言った。職人は、へえ、と目を丸くした。「そいつは、すごい。お鎮守さまを、見たかい。名前通り、竜だったかい」職人は続けて問う。
「いんや、きれいな、真っ白のお狗様」
「お狗様かあ」
妻は、ほくほくと先日の大水の日のできごとを語りはじめる。長雨と病を連れて、とうとう水土が下ってきたこと。水土が鎮守森に食らいつこうとしたところで、真白のお狗様が現れたこと。お狗様は水土の喉を掻っ切って、大風を吹かせて雨も病も払っていったこと。笑いながら聞いていた職人は、しだいにまじめな顔になっていった。
「なるほどなあ」
そして、妻が語り終えると、得心した様子で目を閉じる。
「儂の家もな、もうずいぶん長いこと、竜之歯ぶらしをこしらえては、この村へ納めておってな。なんでかは知らん。いつからかも知らん。けどどんな飢饉があってもどんな禍ひがおこっても、竜之歯ぶらしだけは切らしてはならんと言われてきてな」
職人はそこで、妻が出したお茶をすい、と飲む。長雨が払われてから、すっかりいつも通りの蒸し暑い夏になっていた。職人の汗ばんだ額に、髪の毛が張り付いている。
「奥方さんのお話を聞いて、ようやっとわかった。わが村はここより川下だもん。竜之歯ぶらしを大事にお供えしておれば、いつか禍ひが湧いたさいにも、この村のお鎮守さまが、ぴかぴかの牙でもって払ってくれることを、ご先祖は知っとったんだろうなあ」
そう言って職人は、その筋張った手で傍らの竜之歯ぶらしを撫でた。妻はそれをにこにこと笑って見ている。「なるほどなあ」と、私はうなずいた。頭の部分だけ薄いたとう紙でくるまれた竜之歯ぶらしは、その褐色の地色にあぶらのにじむかのようなつやをたたえて、ずっしり、でん、とその身を横たえている。
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