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竜之歯刷子
竜之歯ぶらしをいただけますか。
と、だいたいその人は夜半過ぎに訪れる。
笠を被り、笠の上からすっぽりと黒衣を重ねているものだから、こちらからすれば小さな一人分の天蓋が歩いているような印象だ。店はとうに閉めた時間ではあるが、その人が訪ねてくるとあってはそう言ってもいられない。その人は、天蓋の合わせの隙間から手を出して、私にお代を渡す。これで、竜之歯ぶらしをください、と重ねて言う。私はそれを受け取ると、店の一番奥から竜之歯ぶらしをもってきて、その人に渡した。
竜之歯ぶらしは、その人の背丈ほどもある大きな歯ぶらしである。その人は歯ぶらしを天蓋の中にしまい、ぺこりと頭を下げて元来た道を戻っていく。黒い天蓋は、やがて夜の暗さのなかに解けるように消えていく。
竜之歯ぶらし、という呼び名がいったいいつから使われているのかは定かではないが、大きなものの枕に「竜」とつけるのは比較的ふつうのことであったから、それ程深い意味のある名づけではなかろう。まさか、竜が使う歯ぶらし、という意味ではあるまい。では、誰が使うのか。それは、仕入れている私も、作っている職人も知らない。ただ、月に一度、天蓋をまとった女が「竜之歯ぶらしをいただけますか」とやってくるから、そのためだけにひとつ、在庫している。今納められている竜之歯ぶらしは、その柄に柿を用い、頭には豚毛を植えたものだと、職人は言っていた。
くだんの職人は私の父ほどの年齢で、先祖代々、この店にぶらし類を卸してくれている。もちろん竜之歯ぶらし以外にも、ふつうの歯ぶらし、馬や牛の毛並みを整るぶらしや、猪毛を植えた髪の毛用のぶらしなんかを、要望に応じて納めてくれるのだ。職人の村はここから川沿いに半日ほどくだったところにあり、ここと似たような風景の、ちんまりとした村だと言っていた。
◇
昔、祖父から聞いたことがある。
祖父がまだ小僧だったころにも、同じように黒い天蓋の女がそれを買いにきていたのだそうだ。祖父はどうしてもその女が買った竜之歯ぶらしをどう使うのか知りたくてたまらず、ついあとをつけた。
それは女が抱えるには重い。私とて持てないことはないが、軽々持ち歩けはしない。女はゆっくりゆっくり、体を左右に揺らしながら、歯ぶらしを抱えて小道を歩く。畑と畑の間を抜けるときに、こわいほど真っ赤な彼岸花が道いっぱいに咲いていたから、それは秋のことだったと思う、と祖父は言っていた。
女は、そのまま通りを抜けて、お鎮守さまの森に入っていった。祖父はさすがにそこで暗い夜の森に怖気づき、女のあとをつけるのをやめたそうで、結局女が歯ぶらしをどこに運んでいたのかは、わからずじまいだったと笑った。「お鎮守さまが歯ぶらしを使うておられたんかもしらん」と、そういえば祖父は冗談めかして言っていた。
◇
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