竜之歯刷子

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◇ 「水土(みづち)なんぞ、もう、何代も出ておらんかったのに」  年寄りが愕然と呟く。水土(みづち)は父の代にも祖父の代にも、祖父の父の代にも出たことはなかった。だから私たちはどこかで、物語だと思っていた。  絶えず耳の底を打つ雨音と河の流れる音、それを引き裂くように水土(みづち)の体が水を割る音が響いている。どうかこのまま河を滑って流れていけと願う。水土(みづち)が河から上がったら、それこそ終いだ。水土(みづち)は土ごと、村を食い尽くしていくだろう。だがこのままのたのたと河を滑ってくれれば、悲劇は下流で起きよう。或いは海まで流れてくれれば、水土(みづち)は海水には耐えないと伝え聞く。  ドン、と大きな音とともに水土(みづち)が跳ね上がった。中州の岩に当たったようだった。水を割る音が土を削る音に変わり、岩を砕いて中洲に乗り上げた水土(みづち)が、跳ねて方向を変えた。 「上がった」と、子どもらが叫んだ。 「おかへ上がった」 「お鎮守さまのほうに、すべってる!」  年寄りのひとりが、「御神体をお持ちし損ねた」と悲鳴をあげる。「お鎮守さまが食われてしまう」「鍵屋、おまえがこんどの宮司係だったろう、なんで……」「まさか水土(みづち)が出ると思わんかったんじゃ」今責めたところで詮無い。若いものたちが彼らをなだめるが、そうこうしている間にも、水土(みづち)は岩石を呑んだ体を引き摺るようにして、田畑を砕きながらお鎮守さまへ向かっていく。 「お鎮守さま、食われてしまうの?」  子どもらが不安げに尋ねる。彼らも異様な光景に怯え、樹から降りてそれぞれの父母にしがみついた。子どもらのずぶぬれの頭を、母親がぎゅうと胸に抱え込んだ。肺を悪くしている母親は、空咳を繰り返しながら、ずぶぬれの胸に子をかき抱いた。お鎮守さま食われてしまったら、どうなるの? 子どもは、容赦なく問う。  東のほうの空が一瞬またたいて、白い閃光が走った。水土(みづち)は遠い雷鳴に悦ぶように、いっそうその身をくねらせる。 「お鎮守さまを食ったら、あれはここに棲むやもしれん」 「あの化け物が、お鎮守さまの森に棲むの?」 「ああ、でも、何もかんもほんとのところはわからん、わからんよ……」  騒動を静かに見ていた妻が、ふいに烈しく咳込んだ。妻を背に負った私は、慌てて大丈夫か、と声を掛ける。うう、と妻は唸った。その体は、子どもほどに軽い。 「水土(みづち)は大食いじゃ」  思い出したようにひとりの年寄りが言う。あれは(にえ)をもとめるぞ、そしたら弱っとるもんから、出さねばなるまいと、訳知り顔で妻をちらりと見た。けほ、と妻がまた濁った咳をする。私は妻を隠すように、体の向きを変えた。「うちのは、身重だけん……」、私は小さな声で、言い訳をするように呟いた。雨音がうるさく、年寄りの耳に届いたかどうかはわからぬ。 ◇
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