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◇
とうとう水土が、鎮守の森の周囲に散らばる民家のひとつに、がばりと圧し掛かった。ほとんど同時に、また一筋雷光が空を裂いて、あまりにもまぶしく私たちはそろって目を覆った。
「アッ、」
若いのの一人が、声を上げた。その声色の示すところの吉凶が読めず、私たちはぞろぞろと若いのの視線の先をたどった。見遣れば、土砂を啜って黒く濁り始めた水土の胴体が、苦しげにびたびたと、ねじれながらのたうっている。のたうつ合間に、水土に食らいつくものが見えた。水土はなんとかそれを払い落とそうと、その手足のない体をくねらせる。水土にかぶりついているのは、ぼうっと光るような長毛の獣だった。降りしきる雨や土砂に、ほんのわずかも汚れず白いままの獣。
「――狗か?」
「狗ではなかろう、見ろあんなに、巨きい」
「なれば、巨きい狗か」
私たちは呆けてそれを見つめた。
山が震えるほどの衝撃が走り、どうやら水土がその尾をいっそう苛烈にたたきつけたらしい。真白の獣は、いったん水土から距離をとった。離れると、それはまさしく巨きな狗であった。その白く、毛の長い、美しい狗の咆哮は地鳴りのごとく、いっそ雨を払うほどの轟音である。水土が一瞬、怯えたように動きを止めた。尾の先がちろちろと揺れていた。気づけば雨は霧雨へと変わっている。
また地鳴りが響く。狗が唸りながらその白銀の牙を剥き出しにして、水土と鎮守森を挟んで距離を保った。
「お鎮守さまやね……」
ふいに、妻が呻くように言った。わが村のお鎮守さまは、お狗様であったのやね。妻の声は私にしか聞こえないほどか細いものであったが、やけにはっきりと断定する口調だった。竜之歯ぶらし、竜ではなくお狗様が使っておられたか。妻の声は、少しうれしそうですらあった。
私ははっとして、獣と水土のほうを見た。獣は、太い後肢で地面をえぐるように蹴り上げると、そして水土の喉から腹にかけてに齧りつく。齧りつく瞬間、白銀の牙がよりいっそう、長く鋭くなった。しっかりと食らいつかれた水土がのたうつ。獣は前肢でもがく水土を押さえると、引き千切るように自身の頭を振った。
瞬間、千切られた水土の頸から、突風が噴き出した。突風は獣を吹き飛ばし、霧雨を吹き飛ばし、雲を吹き飛ばし、そして濁流を巻き上げていった。流れ星のように吹き飛ばされた獣は、しゅうと強く光って、そして消えた。突風に目をやられた私たちが目を覆っていた手をそっと放すころには、水土のすがたも、氾濫する水も、砕かれて転がる岩も、そしてあの真白の獣の姿もなかった。村ぜんたいに漂っていた、沼のようなにおいも払われ、乾いた空気に、流行り病に臥せっていためいめいの咳も止んだ。お鎮守さまが村を苛むものすべてを払ったのだ。安堵し、さんざめく人びとを後ろにして、私は妻をおぶったまま、あの白く燦爛としたお鎮守さまの牙を思い出していた。あの、美しく磨かれた翳りのひとかけらもない牙を。
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