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第17話 ようこそカフェ『うるわしの里』へ
『三陸の親戚から魚介が山ほど届いてさ。うちのおふくろが鍋パーティーするからあんたも呼べっていうんだよ。どうする?』
清明からそんなLINEが届いたのは、十二月の始めのある日のこと。
それを立夏はこたつに突っ伏し、もうろうとした頭で読んでいた。
小説の仕事が年末進行の真っ最中だったのだ。例によって、決して速筆ではない立夏は今回も苦しんでいた。
司朗と出会ったお盆の時期もそうだったが、大型連休がある時期は、出版社も印刷所も休みに入るので、あらゆる締め切りが前倒しになるのである。
「いいなあ。お鍋。原稿さえなかったらね~」
落ち込み顔のスタンプつきで返信する。
『座りっぱなしじゃ血の巡りが悪くなって、いいアイディアも浮かばねえんじゃね?』
まるでどこかのお母さんのようなセリフだ。実際、彼の母が裏でそんなことを言ってたきつけているのかもしれない。
それに清明も言うことも最もだ。半日くらい気分転換したところでバチは当たるまい。どのみち机に向かいっぱなしでも、たいして文字数は増えていないのだ。
「じゃあお言葉に甘えようかなあ」
『おう』
「締め切りでへろへろなので、おいしいやつお願いね」
そう返信すると、『任せとけ』と力こぶを作っているキャラのスタンプが送られてきた。
司朗が傍にいたときには気づかなかったが、清明はあれでなかなか料理がうまい。とは言っても司朗のような繊細でやさしい味わいの料理ではなく、いわゆる大雑把な『男の料理』なのだが。その気さくさが、かえってほっとするときもあるのだ。
天板の上に伸ばした腕を枕に突っ伏したまま、石油ストーブの上でしゅんしゅんと湯気をあげるやかんを見つめる。
窓に吹きつける冷たい風には、粉のような雪が混じっていた。
真冬にはマイナス一〇度以下になることも珍しくない盛岡の冬で寒さには慣れていたつもりだが、浄法寺の冬は初めてだ。
ましてや盛岡の気密性の高い家とは違って、改修を施されてはいても、古民家はどうしてもあちこちから風が吹きこんでくる。
いなくなる前、夏の間は必要がないはずの石油ストーブやこたつを目に付くところに出してあったのは、家を空ける期間が相応に長くなることを見越しての司朗の気遣いなのだろう。
そんな気遣いをするくらいなら、いなくならないでほしかったのだが。
こつん、と何かが窓に当たる。
軒先に干している凍み豆腐が風にあおられたのだ。
凍み豆腐は薄く切った豆腐を藁で巻いて、すだれのように軒先に吊るして乾かす昔ながらの保存食だ。立夏は冬が来る前に、高橋夫人から凍み豆腐と凍み大根の作り方を教わったのである。
この数か月で、立夏はだいぶ浄法寺の里になじんでいた。
皮肉なことだが、もしあのまま司朗と暮らしていたなら、ずっと彼の陰に隠れたままで、こんなにも里の人々と触れ合うことはなかっただろう。郷土料理を覚えることもなかっただろうし、いつまで経っても立夏にとって浄法寺ではお客さま感覚だったに違いない。
けれど今は違う。
もはやこの里は、立夏にとって第二のふるさとと呼べる存在になっていた。
手土産代わりに凍み豆腐を持っていこうかな。お鍋の具にも使えるかもしれないし。
そう思い立って、ようやく立夏はこたつから抜け出したのだった。
おなかを満たして清明の家を出ると、もう周囲は夕闇が包んでいた。
いつものように休業中のカフェを回りこんで、家のほうに戻ろうとしたときだった。
視界の端をちらりと明るいものが過ぎったのだ。
誘われるように顔を上げた立夏が見たのは、ろうそくの灯りだった。
いつの間にか雨戸は開けられていて、窓ガラス越しに、幾本もの和ろうろくの大きな炎が揺らめいているのが見える。
ブーツが踏みしめる雪の感触が、ふわふわとどこか現実味のないものに感じられた。
導かれるように、ドアに手をかける。
鍵はかかっておらず、わずかに力をこめて引くと、ゆっくり開いた。
吹きこむ風で、室内のろうそくがいっせいに身をすくめる。
再びドアが閉じられると、ほっと落ち着きを取り戻したようにまたゆらゆらと踊り始めた。
たくさんの和ろうそくのあたたかみのある炎の光が、冬の夕闇を掃うように室内を照らしていた。
「ようこそ、『うるわしの里』へ」
声は、カウンター奥のキッチンのほうから聞こえた。
縫い留められたようにドアの前から動けずにいる立夏の前へ、声の主はゆっくりと姿を現す。
「……司朗くん」
その名を口にするのは、もうどれくらいぶりだろう。
夏に見たときよりも幾分痩せていて、いつも結んでいた後ろ髪は短く切られていたが、おだやかな微笑みはそのままだった。
見慣れた藍染めのエプロンと、白いシャツに黒いパンツ姿なのも以前のままだ。
「怒っていますか……? 立夏さんに黙って行ったこと」
「怒ってない……わけないでしょ?」
「やっぱり、そうですよね」
「勝手に契約だとか何とか言って引っぱりこんで、なのにまた勝手に放り出して、人のことを野良猫か何かと思ってるの?」
「すみません」
一歩、一歩、近づいていく。
一気に距離をつめると、陽炎のように消えてしまうのではないかと思えて、怖かった。
おそるおそる手を伸ばしても、司朗はもちろん消えなかったし、逃げなかった。
シャツの上から、腕を掴む。
両腕でしがみついても、司朗はただ微笑んで、そこにいた。
「待ってた……わ、わたし……ずっと待ってたんだから」
「はい」
ふわりと引き寄せられ、抱きしめられる。
懐かしい司朗の香りに、ほっと息が漏れた。体にこもっていた力が抜けていく。
「祖父が、亡くなったんです」
「……川越の?」
抱きしめたまま、司朗が頷く気配がした。
「ぼくは実家とは没交渉気味でしたから、きっと電話じゃ帰って来ないって思われてたんでしょうね。たまたま来日して居合わせたアキが自分からぼくを迎えに行くと言い出したらしいです」
「それであの時、アキさんが?」
「ええ」
アキの勝ち誇ったような顔が思い出されて、胸が痛む。
「祖父は厳しい人でした。でもぼくにとっては師匠でした。浄法寺で漆を掻くことの素晴らしさを教えてくれたのがこの町の祖母や清明たちなら、漆を使うことの素晴らしさを教えてくれたのも祖父でした。だからぼくは、祖父が仕掛かり中だった大きな神社の修復工事の一部を、引き継ぐことにしたんです」
「そうだったの……」
「立夏さんに会って、わけを話したら気持ちが揺らいでしまうと思ったら、できませんでした。……すみません」
立夏は答えの代わりに、腕に力をこめる。
「今さら戻ってきて何ができるんだって目で見る社員もいましたし、やっぱりおまえの腕はいいなって言ってくれる社員もいました。漆を塗っているときの『ああ、生きてる』って感じる気持ちを、久しぶりに思い出しました」
漆について語るときの司朗は、とても楽しそうだ。
それが司朗だったと、この人だったなと、あらためて思い出す。ひどく懐かしいような、安心するような不思議な気持ちだ。
「でもそんな毎日を過ごせば過ごすほど、ぼくが思い出すのはこの浄法寺の山々の漆の甘い香りや、里での日々のことでした。そして、立夏さんと過ごしたカフェでの時間のことでした」
名を呼ばれて立夏は顔を上げる。
その髪を、司朗はやさしく撫でた。久しぶりの、布手袋の感触。まるで大きなぬいぐるみに撫でられているような不思議な気持ちになる、なつかしい感触。
「封筒、気付いてくれたんですね」
しがみついたまま、立夏は首を振った。
「ぼくが立夏さんのファン第一号ってことで、いいですよね?」
「……ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとですよ」
司朗は心の底から嬉しそうに笑った。十八年も抱えてきた秘密をようやく告白できたとでもいうような、晴れやかな顔だった。
「でも少し寂しかったな。立夏さん、ぼくのこと全然気づかないから」
「だって、あのときの司朗くん、小学生だったじゃない! 無理だよ!」
「ぼくはすぐにわかりましたよ。立夏さんのこと、絶対に忘れないですから」
司朗はずるい。こんな話を聞かされてしまったら、もう後戻りはできないではないか。
熱いかたまりが体の奥からせり上がってきて、息が詰まる。
「ぼくはやっぱり、この里で漆を掻いて生きていきたい。漆の木に触れて生きていきたいんです。この里の漆を欲しいと思ってくれる日本中の人に届けたい。漆を使う立場でもあるぼくなら、浄法寺の漆の素晴らしさをもっと広めることができると思うんです」
「……素敵だね」
「立夏さん、覚えていますか、契約上の婚約者になってくださいって言ったこと」
立夏はやや戸惑いながらも、首を縦に振る。
「あの契約の件は、なしにしましょう」
「えっ」
立夏は耳を疑った。
なぜ今になって、また突然にこんなことを言いだすのか。
もう用無しだとでも言われるのかと身構える立夏の髪をまた撫でて、司朗はゆっくりと言った。
「もう立夏さんは自由ですよ。ぼくのわがままで、立夏さんを縛ってしまい、申し訳ありません」
「そんな……縛るだなんて……」
「立夏さんと過ごすことができた一か月のおかげで、このままではいけないと強く思うようになりました。立夏さんは自分の夢を叶えて、まっすぐに前を見つめて歩いている。一日一日を頑張っている。だから自分もいつまでもうじうじしてはいられない、そう思うようになりました」
司朗にそんなふうに言ってもらえるような、立派な生き方はしていない。
ただ毎日をやり過ごすことで精いっぱいなだけだ。
「だから祖父の件をきっかけに、父と母と、初めて真正面から話し合ったんです。時間はかかりましたが、父はわかってくれました。ぼくはこの里で、国産漆を生産する職人として生きていきます」
そう言う司朗の表情からは、離れる前に時折纏っていた陰のようなものは、もう感じられなかった。どこか遠くを見つめているようだったまなざしは、しっかりと現在に向けられていた。
「川越に残っていた方が経済的には安定するでしょうが、ここには豊かな自然があります。いざとなったら自分の食べるものくらい、何とかなりますからね。立夏さんはもう、自分がしたいようにしていいんですよ」
「わたしが……したいように?」
「はい」
おずおずと尋ねる立夏に、司朗は頷く。
「ぼくにできることがあれば、言ってください。これまで我侭に突き合わせてしまった埋め合わせにはならないかもしれませんが」
「……何でも、いいの?」
「何でも」
やさしい言葉と表情で逃げ道を塞がれて、立夏は震えた。
胸の前で握りしめた手に、力がこもる。その手が冷えてこわばっていたのは、決して寒さのせいだけではないはずだ。
「わたし……わたしは……」
「はい」
息が苦しい。
願いはたったひとつだ。司朗が立夏の前から姿を消してから、ずっとそればかり考えてきたのだから。
だけどいざこうして司朗を目の前にすると、胸の中で何度も何度も繰り返してきた言葉が、のどにつかえて出てこない。先に溢れたのは、涙だった。
こらえようとしても、無理だった。あとからあとから溢れてきて、頬を濡らす。
唇を噛んで涙を流す自分は、きっと相当情けない顔をしているだろう。
「司朗くんと、これからもずっと、一緒にいたい」
声が、子どものように震えた。
「契約なんかじゃなく、司朗くんがいいの」
形のいい司朗の目が、ほんの一瞬見開かれた後、嬉しそうに細められる。
伸ばされた長い腕に捕らえられ、腕の中に包みこまれる。見た目よりもしっかりと筋肉がついている胸板の厚み。懐かしい司朗の匂い。
耳元で、「喜んで」と甘く低い囁きが聞こえて、体が震えた。
「本当に、いいんですか?」
「うん」
司朗の体温にほっとしながら、彼の胸に顔を押し付ける。
「さっきも言いましたが、漆掻き職人の収入はあまり高くありません。贅沢な暮らしはできませんよ」
「作家の収入だって、たいしたことないよ。畑を作って鶏を飼ったら、きっと何とかなるよ」
頭の上で、くすっと笑った気配がした。
「確かにそうですね」
その雰囲気に安堵して顔を上げる。微笑んだ彼の顔が、すぐ傍にあった。
「立夏さんもご存じの通りのふつつかものですが、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」
体中の力が抜ける。これまでずっと張りつめていたものが、ぷつんと切れてしまったみたいに。崩れそうになる体を、司朗が支えてくれた。
「あの、あのね、司朗くん……もう一つ、お願い聞いてもらってもいい?」
「いいですよ。一つと言わず、いくらでも」
「じゃあ……あのね、敬語使うの、やめてほしいの」
すると司朗は、驚いたように幾度か瞬きをした。
「敬語ですか?」
「普通にため口でしゃべってほしい。アキさんとか、清明くんとしゃべってたみたいに」
「何だ、そんなことですか」
「ほら、また」
顔をしかめると、司朗はふっと息を吐くように笑う。
「もしかして、清明に妬いてた?」
頬が熱くなるのがわかる。ここまでこれだけ恥ずかしい顔を見せたのだから、もう怖いものなどない。立夏は司朗にぎゅっと力をこめて抱きついた。
「そうよ、妬いてたの! 妬いたら悪い?」
「全然。むしろ、すごく嬉しい。ありがとう」
ただそれだけの言葉なのに、体も心も震えるほどに嬉しい。先ほどとは違う意味で、涙が溢れてくる。ずっと堪えてきたものが、溢れてくる。
でももう、いいだろう。せき止めておく理由などないのだから。
「駅前のホテルのパーティーに清明くんに連れてってもらったときに、アキさんに会ったの。司朗くんがわたしに会いたくないから実家に戻ったって言われて……嘘だって思ってたけど、ショックだったんだから」
「アキが、そんなことを?」
司朗が目を見開く。
立夏が頷くと、司朗は大きなため息を漏らして、手で顔を覆った。
「パーティーというのは浄法寺の漆業界の慰労会のことだよね」
「うん」
「本当に、ごめんなさ……ごめん。立夏さんにそんな嘘つくなんて、あいつ……どうかしてる。さっきも言ったとおり、ぼくは祖父から引き継いだ仕事にかかりきりになっていたから、顔を出さなかっただけだから」
「うん」
「実は川越にいる間、あいつにプロポーズされた」
「うん……えっ!? プロポーズ?」
司朗にしがみつく手に、思わず力がこもる。司朗は心底困ったように肩をすくめた。
「もちろん断ったけどね」
「そ、そうだったんだ……」
「あいつはぼくが会社を継いで、自分がその伴侶になるのが一番いいって思ってる。浄法寺やうちの会社のためにも、自分の家のためにも。ある意味ではあいつは正しい。それはわかる」
司朗は伏し目がちで息を吐いた。
「だけどあいつが見ているのは、ぼくの肩書であってぼく自身じゃない。ぼくは漆の木に触れて生きていきたい。この里と山のそばにいたい。でもあいつにはそれがわからない。理解できないんだ」
燃えるような憎悪の目を立夏に向けてきたアキ。
司朗の言葉を聞いた今では、あの目の意味がわかるような気がした。おそらくあのときは、司朗に結婚を断られた後だったのだろう。
「もし、わたしと再会してなかったら――」
「ん?」
「や、やっぱりいい。やめとく」
「こら、言いかけてやめるのは反則」
逃げようとする腰に手を回されて、閉じこめられる。髪に顔を埋められて、背筋がふるえた。
「じゃあ、言うけど……呆れないでね」
「約束する」
「もしわたしと契約婚約してなかったら、司朗くんはアキさんの手を取ってたのかな、って思ったの」
「ぼくが?」
司朗は一瞬意外そうに目を丸くしたが、すぐに幸せそうに細める。
「立夏さん、妬いてくれてるんだ」
その嬉しそうな顔が悔しくて、思わずどんと胸を叩く。
「そうよ! めっちゃ妬いたんだから! 司朗くんはいきなりいなくなっちゃってわたしも清明くんも連絡取れないし、手紙のひとつもくれないし、なのにアキさんだけは司朗くんに会えて、好き放題言われて……すごく、すごく、悲しかったんだから! ちゃんとわたしの気持ち、わかってる? わたしは司朗くんの気持ち、わかろうとしたよ? 一生懸命、わかろうとしたんだから……」
言葉も感情も、抑えがきかない。
司朗の胸を叩いて叫びながら、これまで自分は年上の負い目があったのだ、と立夏は理解した。
年上だから大人な態度で接しないといけないのだと、わがままを言って司朗を困らせてはいけないとのだと、心のどこかで思っていたのだ。
その無意識の枷が、外れてゆく。
「ごめん。ごめん……立夏さん」
息が止まるほど強く、抱きしめられる。
その胸に額をこすりつけて、立夏はつぶやくように言った。
「……あと一つだけ、お願いしてもいい?」
「なんなりと」
「手袋、取って」
司朗の体に緊張が走ったのがわかる。
理由はわかる。あのノートに書かれていたことを読んだから。
でも今はそんなことはどうでもよかった。また傷ついたって構わなかった。この数か月の間ずっと耐えていた痛みに勝るものは、もう何もない気がしていたから。
――司朗がそばにいてくれるのならば。
「司朗くんに、直接触りたいの。触ってほしい」
「いいの?」
立夏はうつむいたまま、頷いた。
「手袋を外したら、もう遠慮はしないよ?」
もう一度、頷いて、司朗の胸に顔を押し付ける。
自分の心臓が脈打つ振動で体中が揺さぶられる。壊れてしまいそうだ。
頭の上で、司朗が手袋の先を噛んで引っ張る気配があった。家やカフェで料理をするときなど、いつもの布手袋からゴムの手袋へ付け替える際に、彼がしていた仕草だとわかった。
ぱさりと乾いた音がして、テーブルの上に外された手袋が置かれる。
骨ばった司朗の長い指が、立夏の髪をやさしく撫でる。その感触に、思わず立夏はびくりと身をすくませた。
髪を撫でていた指は、やがて耳朶をなぞり、顎へと下りてくる。その手にわずかに力がかかり、上向けられる。
司朗のまなざしと、立夏のそれがかち合い、ゆっくりと近づいていく。
ひんやりとした柔らかい司朗の唇を自らの唇に感じながら、立夏は目を閉じた。
また溢れた涙が、頬を伝っていった。
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