第18話 里の春に

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第18話 里の春に

 肌を刺すようだった寒さもやわらぎ、うぐいすの声が聞こえるようになると、北東北にも遅い春が訪れる。夏には蛍の乱舞が見られるという折爪岳も、重い雪の衣を脱ぎ捨て始めていた。  淡い色をした山桜が山肌を控えめに彩り、道端にはがこぞって顔を出す。ふきのとうのことを、この辺りではばっけと呼ぶのだ。  山肌と田畑の境目に延々と続く細い農道を、立夏と司朗は長靴姿で歩いていた。 「あ、司朗くん、そこにタラの芽があるよ」 「えっ、どこ?」  立夏が指さす先に目をこらすが、司朗にはタラの木がすぐには見つけられないようだ。タラの芽は日当りのいいひらけた場所に生える木で、その若い芽はてんぷらにして食べるととてもおいしく、山菜の中でも人気が高いのだ。 「そこそこ。そのトゲトゲがついてる木の芽だよ」 「あっ、これ?」 「そうそう。その芽を根元からポキッと折っちゃって」 「了解」  手を伸ばして届く範囲のタラの芽を収穫し、蔓で編んだ籠に入れる。この籠も冬の間に、菊池夫人や高橋夫人たちに教わって立夏が作ったものなのだ。 「ばっけはもうこのくらいでいいかな」  司朗が籠の中をのぞきこむ。  まだ開ききる前のころんと丸くかわいらしいばっけで、既に籠の中は満員だ。 「たくさん採れたから、今夜はてんぷらにしようか」 「あっ、あそこにヨモギもたくさん生えてる」 「ちょっと立夏、まだ採るの」 「だって草餅にするとおいしいよねえ。てんぷらも」 「食べきれないよ?」 「うーん、じゃあ、ちょっとだけ」  立夏はえへっと舌を出し、数枚だけヨモギも摘んだ。 「こないだ高橋さんにおいしいばっけ味噌の作り方を教わったから、ばっけは全部てんぷらにしないで少し残してね」 「すごいな。いつの間にそんなに浄法寺の里について詳しくなったの?」 「えへへ~。すごいでしょう。褒めて褒めて」  自慢げに胸をそらす立夏の頭を、司朗はよしよしと撫でる。  その手に、もう手袋はなかった。 「そうだ。浄法寺の山菜もカフェのメニューに加えない? たとえばピザにばっけを乗っけてみるとか」 「お、いいね。新しいかも。こないだメニューに加えたへっちょこ団子も好評だしね」 「菊池さんが言ってたよ。春は苦みのある山菜を食べるといいんだって。冬の間に体にたまった老廃物を排出してくれるからって」 「へえー。たしかに春は山菜がおいしく感じるような気がしてたけど、そういう意味があるんだね」  さわさわと心地よい風が吹きぬけていく。  その風に乗って舞う山桜の花びらを見送って、ふと立夏は思った。 「そういえば、実が成るくらいだから、漆の木にも花が咲くんだよね」 「花の時期は梅雨の頃だから、まだまだ先だけどね」 「見てみたいなあ。どんな花なのかな」 「地味な花だけど、ぼくは好きだよ。じゃあ、漆の花が咲いたら見に行こうか」 「見たい見たい」 「ちょうどその頃から、漆掻きも始まるし。じゃあ一緒に行こう」 「うん! いっぱいお弁当作るよ。あ、ついでにずっと疑問だったんだけど、漆ってどうして『うるし』って言うのかな。カフェの名前と何か関係ある?」 「漆は豊富な樹液が出るから『うるわしい』、それが転じて『うるし』の語源になったって聞くよ。美麗の意味の『麗しい』が語源って説もあるみたいだけど」 「そういうことだったんだ」 「そういうことみたいだね」  手をつなぎ、のんびりと農道を歩く二人の頭上で、うぐいすが春の喜びを高らかに歌い上げていた。        *  シャッ、シャッと、小気味よいリズムで樹皮を剥く音が漆畑のあちらこちらから響く。  まだ朝の六時をまわったばかりの山間に、ラジオからはクラシック音楽が大音量で流れている。熊避けのためだが、クラシックなのは意外にも清明の趣味らしい。  清明の家の漆畑は約五千本もの漆を所有しており、これを父と清明、清明の兄と司朗の四人で掻いている。  清明の兄は就職して二戸市内の中心部に住んでいるが、漆掻きのシーズンは毎週末通ってきて手伝っているのだそうだ。  数千本の漆があるとはいっても、一人で掻ける量には限界がある。だいたい年に百から四百本前後と熟練度によって幅もある。それを数日にわけて順々に掻いてゆき、ひとつの季節の間に何巡もするのである。 「その年の最初につける傷を、目立(めだち)っていうんだ。これから掻くよ、と木に教えているんだって。おやじさんが昔教えてくれたっけ」  司朗がおやじさんと呼ぶのは、清明の父のことだ。司朗と清明にとっての漆掻きの師匠なのである。普段は父に対して軽口もたたく清明だが、漆のことになるとまだまだ父には及ばないらしく、今でも教えを乞うときの目は真剣そのものだ。  頭上では淡い黄色の漆の花が揺れていた。熟していない葡萄のような黄緑色のふくらみから伸びた黄色の小さな花弁がひょこひょこ風に揺れて、かわいらしい。  周囲は甘くふくよかでやさしい香りに満たされている。  花の間で葉のようなものが動いたと思って目を凝らすと、蝶だった。漆の花からハチミツが採れると司朗が言っていたことを思い出す。  漆のハチミツで作ったレモネードで、去年は妹の弥生と仲直りしたのだった。  今年はどんな恵みをもたらしてくれるのだろう。そう思っただけで、夏が楽しみになる。  漆を掻く司朗たちを邪魔しないよう、少し離れた木陰にいつものように陣取る。おしりが露で濡れないようキャンピングシートを広げて座り、ブランケットを膝にかけ、ノートパソコンを広げた。  書き始めたのは、ずっと中断していた物語だ。  担当編集者から好感触のメールをもらったものの、司朗と離れたごたごたなどでずっと手付かずになっていたものだった。  当時書いたものを、久しぶりに読み返してみる。  とある国の貧しい家で育った男の子に司朗を重ねて、彼が唯一無二の親友である木の精霊との友情を通じて、生きる力を取り戻すものだった。  あのときはこれがいいと思ったけれど、それからいろいろな経験を積み重ね、時間が経った今になって読み返すと、こうじゃないと思える。  あの頃にはわからなかった感情もたくさん知ったし、出会った人たちもいる。  あのときには知らなかった司朗や清明の様々な一面も見ることができたし、それまで知らなかった自分のことも、たくさん発見してきた。  毎年毎年、漆は違う。二度と同じものはない。だから大切に掻くんだ、と司朗は言った。  物語もそうだと思う。今だから書ける物語があるのだ。  あの辛かった過去があるから、今の喜びがある。  今の自分にしか書けない物語を、もっと書いていこう。  浄法寺の里山を吹き抜けるのと同じさわやかな風を胸の中に感じながら、立夏はキーを叩き続けた。
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