第3話 漆を掻く

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第3話 漆を掻く

「申し訳ありませんが、明日はお店をお休みにします」  カフェでの勤務二日目の夜のこと。立夏が風呂から上がると、玄関のほうから司朗の話し声が聞こえた。来客かと思ったが、どうやら誰かと電話していたらしい。  立夏が居間でテレビを見ながら髪を拭いていると、冷えた麦茶をグラスに注いだ司朗が現れて、こう切り出したのだった。 「わたしはいいけど……何かあったの?」  ありがたく麦茶をいただきながら、訊いてみる。 「いいえ、急きょ山に入ることになったので」 「山?」 「はい。友人で漆掻きの職人から連絡があったんです。台風を警戒して漆掻きを延期していたけど、今回の台風は西のほうで停滞していて、こっちに来るまではまだ日数がありそうだから、急きょ明日山に入ることにしたそうです」  たしかに夕方のニュースで、今回の台風は九州で足踏み状態になっており、東日本への襲来までは時間がかかりそうだと告げていた。 「えっと、司朗くんとその人が山に行くの?」 「そうですね」 「その漆なんとかの手伝いに?」 「ああ、『漆掻き』のことですか? いえ、手伝いではありませんよ。これでもぼくの本業は漆掻き職人なんです。どちらかというとカフェのほうが副業ですね」 「えっ、そうなんだ。知らなかったよ」 「そう言えば、お話ししてませんでしたね。昨日からバタバタしてましたから」 「その節は色々と申し訳なく……」 「いえいえ。ところで立夏さんは、漆がウルシノキという木の樹液だということは知ってますよね?」 「うん。そのくらいは」 「ここ二戸市の浄法寺地区は、国産漆の七割以上を生産する産地なんですよ。漆の木から漆の樹液を採取する方法は『漆掻き』と呼ばれています。その名の通りに、漆の木に専用の道具で傷をつけて、そこから滲みだしてきた樹液を金属のヘラで掻き取って集めるんです。浄法寺には、今でも漆掻き職人が二十人ほどいますよ」 「そっか。だからカフェでも漆器が多く使われてたんだね」 「よく気づきましたね」  司朗は目を輝かせた。 「そりゃあ、ね」 「嬉しいです。漆器というとお正月や晴れの日以外は戸棚の奥に仕舞われているイメージかもしれませんが、本当はどんどん普段使いしていいんですよ。使えば使うほど、艶も味わいも出ます」 「そうなんだ。でも塗りが剥げちゃいそうで普通はちょっと怖いよね」 「本物の漆器は何重にも漆を重ねているから、結構頑丈なんですよ。万が一剥げたり欠けたりしても修理できますしね」 「ふうん」 「さて、朝が早いのでぼくはもう寝ますね。明日はここを自分のうちだと思ってゆっくりしていていいですよ」  そう言い残して、司朗は「よいしょ」と言いながら立ち上がり、風呂をつかうために去っていったのだった。    翌朝、立夏が目を覚ますと司朗は既に出かけた後だった。  店が休みなのにかこつけて、スマホのアラームをセットしていなかったから、昼近くになっていた。数種類が混じった蝉の大合唱が響いてくる。  さすがに扇風機だけで寝ていると、汗だくだ。  シャワーを軽く浴びて、司朗に借りた衣装ケースの中から着替えを物色する。物色というと悪いことをしているようで気が引けるが、何やらちょっと楽しい。  司朗のおばあさんは本当にセンスのいい人だったようだ。花柄ワンピースが多いがシンプルな無地のものもあり、決して古臭くない。  パンツよりスカート派だったようだが、なかでもロングスカートが好きだったようで、そこがまた立夏の趣味や体格とも合っていたのである。  シャワーを浴びて布団をたたみ、司朗が用意してくれていたトマトのサンドウィッチで朝食をとったら、もうやることがなくなった。  原稿はゆうべのうちに何とか書き上げて、担当編集あてにメールで送っておいた。  縁側に後ろ手をついて、ぼんやりと空を見上げる。   心なしか、盛岡よりも空が高い。  浄法寺はなだらかな稲庭岳を擁し、中心部を安比川が流れる、七割が山林の町だ。 背の高い生垣のはるか上空を、何匹もの蜻蛉がすいすいと泳いでゆく。  熱中症で動けなくなっているところを拾ってもらってから三日、慌ただしく過ごしてきたから、こうしてゆっくりするのは初めてだった。  大学も家から通えるところを選んだから、一人暮らしを一度もしたことがない。家事は母に頼りっきりだった。仕事は今でこそ依頼があるが、来年はどうなっているのかわからない。  印税収入があるといっても、平均年収の半分にも届かないのが現実だ。  いつも旦那の給料が安くて家計が苦しいと愚痴をこぼしては、実家に帰るたびに洗剤やら調味料の買い置きやらをちゃっかり失敬していく妹だけど、立夏の年収はそんな妹の旦那に遠く及ばないだろう。実家暮らしだからこそ、生きていけるのだ。  なのに、母や妹に反抗する気持ちだけは一丁前だ。きっと二人とも、いつまで経っても地に足のつかない自分のことをさぞかし呆れた目で見ていることだろう。  むくむくと天を目指して立ち上がる入道雲を見ていると、汗と一緒に自分に対する客観的な評価が首をもたげてくる。  いかんいかん! 知ってるぞ、これはよくないループだ。  思考を中断するように勢いよく立ち上がる。  原稿中は脳の九割がたが小説世界に持ってかれている分、原稿が終わるとその矛先に自分に向くところが厄介だ。  会社勤めをしている人間なら誰でも、部署間の調整や同僚との付き合い、上司への忖度など立夏と気を遣う相手の数は立夏と比べようもなく多い。なのに家族の一言でいちいち汲々とする自分の世界の狭さが情けない。  立夏は廊下の隅に立てかけてあった和帚を手に取った。  司朗は流しに洗い物を放置するような人間ではないし、畳も廊下もピカピカだったけど、せめて居候らしい仕事の一つでもしよう。動いていたほうが、気がまぎれる。  縁側に続く窓を開け放したまま、ざっと埃を掻き出してゆく。  気分の問題かもしれないし換気しただけのことかもしれないが、少しすっきりした。  だけどあっという間に箒をかけるところはなくなって、残るは閉じられた襖の向こう――司朗の部屋だった。  司朗の家には、居間の他に和室がふたつ。一つは祖母の部屋だった場所で、今は立夏が使わせてもらっている。もう一つは司朗の部屋だ。  どうしようかな。さすがに勝手に入ったらやっぱり失礼だよね。  襖の前でうろうろと逡巡していると、襖の一部に二センチほどの隙間があることに気づく。几帳面な司朗にしては珍しい。  好奇心に負けて、立夏はこっそり覗いてしまった。  最初に視界に飛びこんできたのは、天井まで高さのある大きな本棚だった。 「わあ」  つい声が出てしまう。  司朗は読書家らしい。本棚には小説から写真集まで、ありとあらゆる種類の本が詰めこまれていた。  畳の上に置かれた簡素なパイプベッドの枕元にも、寝る前に読んでいたのか、何冊かの本が無造作に置かれていた。  そのうちの一冊、青い表紙のハードカバーの本に気が付いて、立夏の心臓は跳ねる。  それは『剣の乙女の物語』という、立夏が十年以上前に出した本だったのだ。    4 / 23 「ただいまー」  玄関の引き戸がカラカラいう音とともに、司朗の声が聞こえたのは、正午を少し過ぎた頃だった。  蜩の声を子守歌に、縁側でうたた寝していた立夏は飛び起きると、あわてて玄関先へと駆け付けた。 「お帰りなさー……」 「ストップ!」  犬に待てを命じるような勢いで軍手をはめた手を突き出し、司朗が叫ぶ。  急ブレーキをかけて、立夏はつんのめった。 「そこから動かないで。ぼくたちに、それ以上近づかないでくださいね」  司朗の表情は険しい。  おまけに、彼と同年代くらいで頭にタオルを巻いた青年が、並んで三和土の上に立っていた。 二人とも着古した様子の長袖のTシャツと、ダボッとした作業服のズボンを身につけている。シャツには黒々とした飛沫がたくさん飛び散っていた。 「お邪魔してまっす」  頭にタオルを巻いた青年がニヤニヤ笑いながら会釈をする。  そのタオルもさぞかし使い込まれていると見えて、ほつれたループがあちこちから飛び出していた。司朗とは対照的によく日焼けしていて、腕や肩などかなり筋肉質な体つきをしている。 「あっ、こ、こんにちは」  反射的に会釈をしつつ、立夏は司朗に目で助けを求めた。 「あのー、司朗くん、わたしはどうしたらいいの? 動くなって、何で?」 「かぶれるかもしれないからですよ」 「かぶれる?」  言ってから思い出した。 「もしかして、漆に?」 「そうです。漆に弱い体質の人は、漆の木の風下にいるだけでかぶれるっていいますから。漆掻きに行って来たばかりのぼくらの近くに来たら、かぶれてしまうかもしれません」  びくっとすくむ立夏をよそに、司朗は隣の青年の尻をベチンと叩く。 「ほら清明、おまえはさっさとシャワー浴びてこい」 「へいへい」 「おまえの着替えはいつもの棚んところに置いてるから。洗ったやつ」 「さんきゅー」 「くれぐれもいつもみたいにマッパで出てくるなよ」 「へーい。それじゃあお邪魔しますよっと」   慣れた足取りで風呂へと消えていく青年を唖然と見送る立夏をよそに、司朗は疲れた様子で小上がりにどっかり腰を下ろした。 「はあー、疲れた」 「お疲れさま。大変だった?」  律儀に言いつけを守って距離を保ちながら、立夏はしゃがみこむ。 「今日は山も暑くって。あやうく熱中症になるところでしたよ」 「ちょっと、気をつけてねー。熱中症は大変だよ」 「そうですね。こないだの立夏さんみたいになっちゃいますから」 「あはは……その節は本当にすみません……」  もはや二人の間で立夏の熱中症事件はコントの様相を呈してきた。 「漆は採れた?」 「そこそこですね」 「採ってきた漆ってどんなの? 見ていい?」 「うーん、それもまだやめておいたほうがいいかもですねえ。かぶれると大変ですから」 「えー、つまんないなあ」 「そんなこと言って、かぶれたら本当に大変なんですよ。病院に行かないといけないんですから」 「司朗くんは最初から大丈夫だったの?」 「いえ、かぶれましたよ。最初の頃なんて顔もパンパンに腫れて、何回病院に行ったかわかりませんね」 「ええっ!」  予想外の答えに、声が裏返る。 「かぶれて大丈夫なの?」 「個人差がありますが、職人も普通の人と同じようにかぶれますよ。腕や太股の内側とか、皮膚が柔らかくて敏感なところが特に赤く腫れますね。だから漆掻きをしているときは、手袋は欠かせないんです」 「漆を掻く職人さんって、かぶれない体質の人かなと思ってた」 「風呂空いたぜ」  不意打ちのように後ろから声をかけられて、立夏は面白いくらいに飛び上がった。  まだ三分経ったかどうかというくらいのはずなのだが。 「相変わらずのカラスの行水だな、おまえは」  司朗は顔をしかめた。 「さっと汗流すだけだからな。次、おまえの番だぜ」 「はいはい。じゃ立夏さん、悪いけどちょっとだけこいつの相手お願いします」 「こら、悪いとはなんだ悪いとは。師匠に向かって」 「はいはい」  立夏はぽかんと口を開けて司朗の背中を見送った。  出会ってからこのかた、司朗は立夏にも店の客にもずっと敬語遣いだったから、こんな男性っぽい口調で話している司朗を見たのは初めてだった。  彼は、誰に対してもあんなふうに紳士的なのだと勝手に思い込んでいた。  そのことで、沈んだ気分になっている自分に気づく。  理由は簡単だ。  司朗から距離を取られているような気がしたからである。さっきのように。  お見合い攻勢を避けるための契約的な婚約だとはいえ、司朗があまりにやさしく接してくれるものだから、いつの間にか勘違いしてしまっていたのかもしれない。  元はといえば、この契約がいつまで続くのかもわからない。  リリーの原稿はもう担当編集者に送ってある。当分は、原稿に追われているからうるさい実家にはいられないという言い訳はもうできない。   立夏の胸中でそんな思いがぐるぐる回っていることなどつゆ知らず。静かだった家の中に嵐を巻き起こした元凶は、「あー、あっちいあっちい」などど言いながら、勝手知ったる我が家のノリで冷蔵庫を開けている。  そこから冷えたビールを取り出すと、プシッといい音をさせて開けた。 「あ」 「何だよ、別にいいじゃん」 「それは、まあ、そうなんですが」 「ところでさー……」  首にかけたタオルでごしごしと頭を拭きながら、清明は立夏の顔をまじまじと見た。 「な、何ですか」 「あんた、司朗の婚約者ってマジなの?」 「!」  頬が熱くなる。  司朗が言ったのか。いや司朗が言わない限り、清明がこのことを知っているはずはないだろう。  でも、もしそうだとすると司朗は立夏のことをどのように紹介したのか。  実家のお見合い攻勢を断るための契約上の婚約者だよと、ストレートに言ったのだろうか。それとも普通に、家に婚約者がいるから紹介するよって?  どちらにしても、顔に思いっきり興味津々と書いているこの青年の相手など、どのようにしたらいいのか。  だいたい基本的に引きこもりがちの生活で、コミュ力のなさだけには自信があるというのに。そもそも立夏はかろうじてその場でのコミュニケーションは取れるが、後でどっと疲れが出るタイプのコミュ障なのだ。この後再起不能になったらどうしてくれるのか。  立夏は心の中で司朗にさんざん泣き言を浴びせた。 「あいつ、生意気に婚約者が家にいるっていうからさ、ぜひ会わせろって言ったんだよ」 「は、はあ……」 「意外だったな。あいつはもっとこう、たおやかで清楚なやつを選ぶのかと思ってた」 「意外ですみませんね。どうせアラサーですし」  我ながら子どもっぽいと思いつつも、べっと舌を出す。 「いやいや、いいことだと思うぜ。そうか、ここ何日か司朗のやつがやけに楽しそうだと思ってたら、そういうことだったのか」 「はあ?」 「あいつ、ああ見えてなかなか複雑に捩じくれた性格してるからさ。付き合ってた女とも長続きしたことがないし。この際、年上ってのはいい選択かもな」 ちくりと、針で刺されたように胸が痛む。 「司朗くんは別に、捩じくれてなんかないと思いますけど……それを言うならわたしのほうがずっと厄介ですよ」 「ふうん。似た者どうしってやつ?」  どっかりとあぐらをかいて座りこみ、ビール片手にニヤニヤと楽しそうに清明は笑う。 「わたしに似てるなんて言われたら、司朗くんがかわいそうですよ」 「いやいや、なかなかどうしてあんたもかなり捩じくれてるみたいだし?」 「余計なお世話です」 「あんたが自分で言ったんだぜ」 「……」  ああ言えばこう言う。しかも人を弄るのが大好きな、立夏のもっとも苦手とするタイプのひとつだ。 「何かツマミない?」  しかも図々しいときている。  いや、むしろ図々しいのは自分のほうか、などと考えてまた立夏はひっそりと落ち込んだ。  今朝の司朗の話とさきほどの二人の様子を総合すると、この図々しい青年は司朗の友人にして師匠なのだ。しかもここは司朗の祖母の家で、この青年は地元の人間だということだから、もしかしたら二人の付き合いは子どもの頃にまでさかのぼることになるのかも。  後からやって来て上がりこんでいる図々しい人間は、どう見ても立夏のほうで。 「……野菜スティックくらいなら」  立夏はうなだれて呟いた。 「あ、それでいいや。お願いしまっす!」 「はいはい」  シンクに置いていた水を張ったボールの中から、きゅうりを二本取り出す。さすが山里の水は水道水でもきんとつめたくて、野菜を浸しておくとしゃっきりとするのだ。  きゅうりをスティック状に切る。マヨネーズか味噌を探して冷蔵庫の中を漁ると、タッパーに入った味噌を見つけた。スーパーで売っているものを使っているのではないらしい。もしかするとこれも、地元の誰かの手作りなのかもしれなかった。  司朗が夕食のときにも使っていた漆器の皿にきゅうりを乗せて、横に味噌を添える。  ふりかえると、清明は子犬のようにうきうきと待ち構えていた。 「どうぞ」 「こいつんちの味噌、美味いんだよな」 「地元産てこと?」 「は? いやいや違うって。聞いてねえの? あいつの手作りなんだぜ」  マジですか……司朗くん、お味噌まで手作りできちゃうんだ。  女として更にショックを受けている立夏をよそに、清明はきゅうりスティックをポリポリ良い音を立てて齧る。 「あー、朝っぱらから働いてた体に塩分がしみるぜ」 「朝って、どのくらいからやってたの?」 「おれや司朗は六時くらいからかなあ。先輩方には日の出前から動きだす人もいるけどな」 「そ、それは大変……」 「まあ、もう十年以上やってるから慣れたけど。それよりもメンドーなのは熊対策かな」 「熊!? 熊が出るの?」 「そりゃあ出るよ。さすがに鉢合わせしたことはないけど、たまに見かける。だから作業中は熊避けの鈴かラジオが必須だな。ちなみにおれはラジオ派。司朗と一緒のときはいいけど、ひとりで山に入るときは一日中誰にも会わないし話さないしで気が滅入るからさ」  立夏は別に一日中部屋にこもって小説を書いていても平気だ。  だからこういう人たちの気持ちは全然わからないのだが、まあ逆だったら辛いよね、というくらいはわかる。 「おまけに今は国産漆バブルだから、稼げるときに稼がないとな」 「バブル?」 「そうそう、国の方針でさ。たしか去年だったかな、国宝なんかの文化財の修復には国産漆の使用が義務化されたんだ。だけどこの数十年で、やっすい中国産の漆に押されて国内の漆産業は壊滅的。すっかり衰退しちまっているっていうのに、急に増産なんかできるはずねえよな。日本で使われている漆の九十七パーセントは中国産で、国産は残りたったの三パーセントだったんだからさ。おかげで浄法寺漆の注文は爆増して、とてもじゃないが生産が追いつかないってわけ。借りられるんなら猫の手も借りたいね」  汗をかいたところに投入したビールがまわってきたのか、清明の調子はますます上がってくる。  そこにようやく救いの手ならぬ司朗が戻ってきた。 「おまえなあ……ちょっと目を離した隙に、立夏さんをこき使ってんじゃないよ」 「お先にいただいてまーす」 「立夏さん、ホントすみません。こいつ、何か粗相しませんでしたか?」 「こら、人を犬みたいに言うな」  呆れたようにため息をつきながら、司朗は冷蔵庫からタッパーを取り出した。  味噌が入っていたものとは別のようだ。  蓋を外したそれを、清明に向かって差し出してくる。  「ほら、おまえの好きなやつ、冷やしといたぞ」 「おっ、さっすが気が利くねえ」  清明は嬉しそうにタッパーの中身に指を伸ばす。  つられて覗きこんだ立夏の視線に気が付いて、司朗は言った。 「レモンのハチミツ漬けですよ」  タッパーの中には輪切りにされたレモンがぎっしりと並べられていた。レモンがやや厚めにスライスされているのは、清明の好みに合わせているのかもしれない。 「そうそう。運動の後はこいつが一番だよな」  喜色満面な様子で、清明は数枚を直に指で摘み、口の中に放り込んだ。  あんたは高校の運動部か。  内心でツッコミを入れる立夏に、司朗が勧める。 「立夏さんもいかがですか?」  そう言ってから、司朗は立夏の顔を見て口をつぐんだ。 「もしかして、手づかみとか苦手でした? いつもの調子ですみません」 「ううん、大丈――」 「そんな細けえこと、気にするなって」  立夏の言葉を遮って伸ばされた清明の手を、司朗はタッパーの蓋で防御する。 「ちっ、何だよ」 「次は立夏さんの番。おまえは一回食ったろ」 「じゃ、じゃあいただきまーす」  不満げな清明の視線から目をそらしながら、立夏もレモンスライスを一枚つまんだ。  口に含むと、爽やかなレモンの香りが鼻へ抜けていく。 「おいしい」 「そうですか? よかった。ぼくのカフェでお出ししているハチミツと同じものを使っているんです。浄法寺の養蜂家が作っているもので、漆の花の蜜なんですよ」 「へえ! 漆からハチミツなんて採れるんだ」  言いながら、立夏はハッとする。 「でも……食べちゃって、かぶれたりしない?」 「これだから素人は困るんだよな。かぶれるのは樹液だっつーの。ハチミツには樹液が入ってないからかぶれるわけねー」  清明が言い終わらないうちに、頭からペシッと音がした。司朗にタッパーの蓋で頭をはたかれたのだ。 「こら、浄法寺産の農産物のファンを増やすチャンスをつぶすんじゃない」 「ってーな。さっきから何だよおれだけ」 「でもこのハチミツ、本当においしい。さらっとしてるのに、しっかりしてる感じ。レモネードとかにしたらいいかも」 「レモネード? それ、いいアイディアですね」 「マーマレードにしてもおいしそう」 「それもいいですね。小岩井チーズのパンケーキに付け合わせてみましょうか」 「あ、それ素敵。女の人が好きそう」 「あのー……」  指先でとんとん自分の膝を叩きながら、清明がじっとり目で立夏たちを見ていた。   「盛り上がってるところ悪いけど、おれの存在忘れてねえか?」 「悪い悪い。ちょっと忘れてた」 「ふん」  盛大に鼻を鳴らして、清明はレモンを鷲づかみにすると、口いっぱいに頬張り咀嚼する。そんな清明を横目に自分もレモンを口に運びながら、司朗はふと思い出したように言った。 「そういえば立夏さん、原稿は順調ですか?」 「えっ、原稿?」  まさか矛先が自分に向くと思っていなかった立夏は、声が裏返った。 「前に、締め切りまであんまり時間がないって言ってましたよね」 「う、うん」 「最初はあんなこと言いましたが、原稿との両立が無理そうでしたら、原稿が終わるまでカフェのほうはお休みしても大丈夫なんですよ」 「あ、それならね、大丈夫なの。締め切り……伸ばしてもらっちゃったから」  咄嗟に口をついて出たのは、嘘だった。  原稿はゆうべのうちに、担当編集にメールで送ってある。確認したらさきほど、無事に受け取ったのでこれから読む旨の返信が来ていた。 「そうなんですか? よかったですね」  安心したように司朗は笑う。  そのやさしい笑顔を見ていると、罪悪感で胸の奥がずんと重くなった。  あれ以来、臼井はやって来ていない。  もしかしたらお見合い攻勢はそれほど頻繁ではないのかもしれない。もしくはあのときの司朗の言葉が効いて、本当に立夏のことを婚約者だと思い込んでしまったのかも。  いずれにしても、この奇妙な居候生活は、期限付きのものだ。  店の手伝いが欲しくてお見合いをしたくない司朗と、落ち着いて原稿がしたい立夏の利害が一致している間のものなのだ。  漆掻きは夏の間しかできない、と出かける前に司朗は言っていた。漆掻きとカフェの両立で忙しいのは、夏の間だけなのだろう。  夏が去れば、立夏は必要とされなくなるのかもしれない。  ――いつもよりちょっとだけ、秋が来るのが遅くなればいいのに。  立夏は心の中だけで呟いて、同時にそんな自分に驚いてもいた。
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