第1話 契約婚約とトマトのジュレ

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第1話 契約婚約とトマトのジュレ

 遠くで蜩の声がしている。  ひんやりした風が顔を撫でていくので、気持ちがいい。  立夏は眉間に刻まれていた皺をゆるめた。    そっと頬に触れるのは、乾いた布の感触。  まるでぬいぐるみに撫でられているようなその感触は、もう十三巻まで出ている少女小説「魔法国のリリー」シリーズに出てくる、命を吹き込まれたシロクマのぬいぐるみの『ネロ』を思わせた。  おっと、いけないいけない。  リリー十四巻の原稿に煮詰まっているからこんな妄想をするのかな。 「大丈夫ですか?」  頭上から降って来た低い声に、立夏はバチンと目を開ける。 「あ、よかった。気がつきましたか?」  視界に飛びこんできたのは、端整な顔立ちをした青年の笑みだった。  立夏よりもかなり若そうだ。まだ大学生くらいだろうか。  ここで「きゃっ」などと言えたら、少しは可愛げもあっただろうに。立夏ののどの奥から聞こえたのは「うっ」とも「ぐっ」ともつかない、低い音だった。  しかも、嗚呼しかもだ。横たわる立夏の頭が敷いているのは、体勢から考えてもおそらくはこの男性の腿で……。 つまり立夏は、こともあろうにこの見ず知らずのイケメンに、膝枕をしてもらっているらしい。 「あ、あの、失礼ながらどちらさまで……」  瀕死の蝉のように膝の上で硬直したまま尋ねる立夏に、青年はにっこり微笑んだ。 「ぼくは箭内司朗(やないしろう)といいます」  肌はあまり陽に焼けておらず、年中家に閉じこもりっぱなしの立夏と同じかそれ以上に白い。伸びっぱなしの後ろ髪は後頭部で軽く結わえてあったが、冷風にさらさらと揺れる目元の髪は柔らかそうだ。  着ているものは黒のパンツに清潔感のある白いシャツ。その上から藍染めのエプロンをつけていた。  両手には白い布製の手袋。漫画やドラマの中で執事のじいやがつけているものみたいだ。 「ここは『うるわしの里』と言いまして、ぼくの住居兼店舗です。いちおう古民家カフェなんですよ」  瀕死の蝉のように膝の上で硬直したまま尋ねる立夏に、青年はにっこり微笑んだ。  言われてみると、青年の顔の向こうに見えるのは黒々とした重厚な古い梁と、目にしみるほどに白い漆喰の壁。天井から吊るされた和紙のランプフェードには、ほんのりと淡い橙色のあかりが灯っている。  厚みのある大きな一枚の板でできたテーブルがフロアの中央にでんと鎮座し、その横には四人掛けのテーブル席が一つとカウンター。顔を動かすと、香ばしいコーヒーの香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。  立夏がこうして膝枕をされているのは、入り口を入ってすぐのところにある畳敷きの小上がりのようだ。 「うちの前で倒れていたんですよ。たぶん熱中症ぎみだったんじゃないかと思うんですが……覚えてますか?」 「熱中症……?」  いったい何がどうしてこんなことになっているのか。   熱が内側にこもってもうろうとする上にズキズキと痛みを訴える頭を抱えて、立夏はのろのろと記憶を巻き戻した。 『お姉ちゃんさあ、いつまでそんな生活続けるつもり? もう今年で三十二歳でしょ?』  妹の弥生がそんなLINEを送ってきたのは、世間様はお盆休みを目前にした今朝方のことだった。 「そんな生活ってどういうことよ」 『決まってるでしょ。いまどき、小説一本で食べていこうなんて現実的じゃないよ』  そんなこと、わざわざあんたから文字列で突き付けられずとも、わかってる。こっちは干支をひとまわり以上もこの業界で足掻いてきたんだから。  と、長々打ってやろうかと思ったが、止めた。こめかみに鋭い痛みが走ったからだ。  それをぐうの音も出ないとふんだのか、弥生はさらにたたみかけてくる。 『いいかげん夢を追うのはやめて現実を見たら? こないだ久しぶりに本屋さんに行ったけど、お姉ちゃんの本、一冊しか見つからなかったよ』 「探してくれてありがと。でも余計なお世話よ」  ズキズキとこめかみが脈打つように痛くなってくる。  思えばこのあたりから、既に熱中症の予兆はあったのかもしれない。ろくに水分も食事も取らずに一晩中ノートパソコンに向かっていたせいだ。  この時期、出版業界はいわゆるお盆進行で大忙しとなる。出版社はもちろん、印刷所も取次もお盆休みに入るため、必然的にあらゆる締め切りが前倒しとなるのだ。  今、立夏が抱えているシリーズものの最新刊の締め切りは来週だ。なのにまだラスト一章分が残っている。 『今はまだお父さんも働いてるからいいけど、来年には定年でしょ? 年金生活になったら、二人をお姉ちゃんが支えていけるの? それとも二人の年金あてにして暮らしていく気?』 「あのね。いくら妹でも、言っていいことと悪いことがあるんじゃない?」 『あたしは家族のためを思って言ってるの。お姉ちゃんは高校生のときに小説家デビューしてから就職したことがないから知らないかもしれないけど、お姉ちゃんが思うよりもずっと世の中って甘くないんだからね』    「まあ、弥生は昔から思ったことはすぐ言っちゃう子だからねえ。悪気はないのよ」 「悪気がなかったら何を言ってもいいわけ?」  生ぬるい汗が、頬から首筋を伝って胸の隙間を流れてゆく。気持ち悪い。  ハンカチで首筋を拭いながら、立夏は拗ねた。  湿気と汗でロングワンピースの裾がまとわりついて気持ち悪い。  台風が近づいてきているとニュースでは言っていたが、お墓の上の空には雲ひとつない。じりじりと照りつける陽射しを遮るものは何もなく、日傘か帽子を持ってくればよかったと立夏は心底悔やんだ。 「あの子、最近旦那とケンカが多いらしくて機嫌が悪いのよ」 「そんなの知らないよ」 「お嫁に行ったら気を遣うことも多いし、いろいろあるのよ。あんたはお姉ちゃんなんだから、それくらい許してやんなさい」 「長女だったら何でもガマンしないといけないわけ?」 「ちょっと。今日は弥生が孫を連れて遊びに来るんだから、いつまでもそんなぶすくれてないでよ?」 「おーい、お母さん。線香はどこだったかな?」 「はいはい。あたしのバッグに入ってるわよ」  両親の背中を眺めながら、立夏は大きくため息をついた。  締め切りまではあと数日で、まだ原稿も出来上がってなくって、徹夜明けで。  台風が来る前にお墓参りに行ってしまおうなんてせっかちの母が提案するから、しぶしぶ原稿を中断したのに。家のある盛岡からはるばる車で揺られて一時間近くもかけて、祖父母のお墓がある二戸市の山の中まで来るのに付き合ったのに。  どうしてこんなことまで言われなければいけないのか。  家に帰ったら帰ったで騒々しい妹と息子もやって来て、また寄ってたかってぐちゃぐちゃ言われなければいけないのか。三十過ぎて結婚もしていなくて自由業の女性のどこが、そんなに悪いというのか。  普段はぐっとこらえて体の奥底に沈めている黒い感情が、汗と一緒に表面に噴出してくる。 「……わたし、一人で帰る」 「は?」 「お母さんたちは先に帰ってて。わたしは一人で後から電車で帰るから」 「またこの子は、そんなこと言って」 「寄りたいところがあるの。知り合いのところ」  もちろんそんなあてはない。口から出まかせである。 「弥生たちが来る前には帰らないといけないから、それまで待てないわよ」 「だから、一人で帰るからわたしのことは構わなくていいってば。新幹線使えば三十分かからないし」 「ちょっと、立夏!」 「じゃあね」  母の声を振り切るようにして、立夏は早足でそこから立ち去ったのだ。   そう、そうだった。  立夏は痛むこめかみを指先で押さえる。  呆れ顔の両親を墓地に残してひとりずんずんと山中の墓地から歩き出したはいいものの。徹夜明けに加えて朝食も食べていなかったから、低血糖と脱水であっという間に熱中症になりかけて。動けなくなって、それこそ夏の終わりの蝉みたいに動けなくなっていたのが、たまたま彼の店先だったというわけだ。  しかもクーラーの効いた店の中の方が涼しいからと案内された際によろめいて倒れこみ、あろうことか嫁入り前だというのに(アラサーだけど)見ず知らずの男性に膝枕されることになったというのが、ことの顛末らしい。 「本っっ当に、すみません……」  両手で顔を覆って立夏は呻いた。  膝枕から転がり落ちて、司朗と名乗った青年に背を向けて猫のように体を丸める。  穴があったら入りたい。いっそ自分を埋めてしまいたい。  これでは居酒屋で深酒したあげくに部下や店員、あげくの果ては駅員にまでからんで迷惑をかけるおじさんと大差ないではないか。  どうしたらいいのかわからずに震えていると、背後で司朗が立ち上がる気配がした。  「トマトはお嫌いではないですか?」 「……トマト? はい、大好きですが」  この状況でいったい何が始まったのか。  おそるおそる振り向くと、司朗はカウンターの奥にある大型の冷蔵庫から何やら取り出すところだった。 「ちょうど、近所の農家の方からたくさんトマトをいただいたので、ジュースにしておいたんです。塩をきかせてきりっと冷やすと塩分と水分も補給できるし、何よりおいしいんです。よろしければどうぞ」 「……いただきます」  大ぶりのタンブラーにたっぷりの氷とともに注いだトマトジュースを、司朗は小上がりまで持ってきてくれた。ぺこりと小さく頭を下げて受け取ると、司朗は再びカウンターの奥へと引っ込む。  ストローでそっと吸うと、さわやかなトマトの風味が口いっぱいに広がった。けれどトマト特有の青臭さはほとんど感じられない。あっさりとしながらもしっかりと甘く、塩加減もちょうどいい。その冷たさが何よりのごちそうでもあった。  立夏は夢中で飲み干してしまった。 「……おいしい」  ため息とともに素直な賛辞が漏れる。   そこへ司朗がトレイを手にして戻ってきた。 「よかった。お口に合いましたか?」 「はい。とっても」 「この店は地産地消カフェなので、食材は近くの農家さんからわけていただいたものを使っているんです。東北の食材は魅力的ですから、発信していきたいんです」 「素敵ですね。このトマトも、すごくおいしかったです。実はわたし、缶入りのトマトジュースってあんまり得意じゃなかったんですが、これならいくらでも飲めそう」 「あははっ。トマト農家さんに伝えておきますね。よろしければこれもどうぞ」 「これは?」  司朗が差し出したのは、漆塗りの小さなスプーンが添えられた黒い漆器の器だった。トマトを半分に切って伏せたような赤い半円形のものが乗っており、ミントの葉がちょこんと飾られている。赤と黒の対比が目に鮮やかだ。 「トマトのジュレです。今度、店で出そうかと思って作った試作品なんです。よかったら味見してください」 「はい、ぜひ」  ドーム形のジュレにスプーンを差し入れる。トマトを切って伏せたように見えたが、中身は赤と淡い黄色の二層仕立てになっていた。崩れないようにそっと口に運ぶと、ひんやりとした心地よさに中に、濃厚な甘さが広がった。 「わっ、濃厚。甘くておいしいですね」 「こちらは地元のりんごジュースと組み合わせてみたんです。常連さんたちに食べていただいて、評判がよかったらメニューに加えようかと思って作ったところだったんですよ」 「これだったら絶対人気商品になりますよ。わたしだったら盛岡からここまで通っちゃいます!」  力いっぱい言いきった直後に、立夏は我に返った。 「あ、あの……図々しくてすみません。自己紹介が遅れましたが、わたし、藤原立夏っていいます」 「立夏さんと仰るんですか。ぴったりの素敵な名前ですね」  不意打ちを食らって、せっかく火照りが静まりかけていた立夏の頬がまた熱くなる。 今どき、こんなセリフをさらりと吐ける生身の男子が存在していようとは。 「あれっ、顔が赤いですよ。大丈夫ですか? ジュース、もう一杯持ってきましょうか」 「……いえ、大丈夫。大丈夫です!」  心配そうに覗きこんでくるイケメンの顔圧に負けて、逃げ場のない立夏は手で顔を覆う。 「ちょっと徹夜明けのまま炎天下でお墓参りしたら、ふらふらしただけなので、少し休めば……」 「徹夜? お仕事か何かですか?」 「えっ」  その一言が立夏を現実に引き戻した。  締め切りまではあと一週間を切っている。あと丸々一章分残っている。立夏は筆が速い方ではないから、全力で頑張って間に合うかどうかというところだ。  こんなところで油を売っている場合じゃない。  だけど今更急いで家に帰っても、夕方にはうるさい妹が子どもを連れてやってくる。そうしたらなおのこと、色んな意味で原稿どころではなくなるだろう。 「盛岡、帰りたくないな……」  無意識のうちに、本音が口からこぼれていた。  それを司朗の耳は聞き逃してくれなかったようだ。 「おうちで、何かあったんですか?」 「えっ!?」  真剣なまなざしに射抜かれて、身動きが取れない。  これは本気で心配されているようだ。 「あっ……あの……その……実はわたし、小説を書くお仕事をしてるんです。それで、締め切り間近なのに全然原稿が進んでなくって」 「すごい! 作家さんなんですか!」 「い、いえ、そんな大層なものじゃないですよ」 「充分大層ですよ! だってぼく、生で作家さん見たの初めてです! うわ、すげえ!」  司朗は目を輝かせた。そうしていると男子高校生くらいに見える。基本的に丁寧口調な彼だが、興奮しているのか語尾が若者っぽくなるのが可愛らしい。 「作家さんがうちの店に来たんだってみんなに自慢しないとなあ」 「いや、わたし全然有名な作家じゃないですし」 「有名だとか有名じゃないとか、そんなこと関係ないですよ! ぼくがすごいって思ったから、すごいんです!」  司朗はぶれずに目をきらきらさせている。  その眩しさに目がくらんでしまいそうだ。  いったいいつから、『自分はこう考える』と胸を張って言えなくなってしまったのだろう。人の顔色をうかがって、びくびくして生きるようになってしまったのだろう。  立夏は生まれてこの方、アルバイトも就職もしたことがない。在学中にコンクールで受賞してデビューしたから、卒業後は当たり前のように専業作家の道を選んだ。  コミュニケーション能力に少々難ありなキャラクターであることは自覚している。だからこそ、なるべく他人と接する機会の少ない仕事を選んだのだ。  だけどそのせいで、同年代の人間――特に女性が、当たり前に身につけている一般常識に欠けていることも認識していた。それが母や妹には、突飛な行動を取っているように映るらしく、ことあるごとに説教されるのにもうんざりしていた。  このままずるずるとここにいても、営業妨害になるだけだ。  家にもどこにも、居場所がない。  しかも、唯一の存在意義といえる作家としての居場所だって危うい。頑張って原稿を書き上げたって、売れる保証はない。ただでさえ初版部数はどんどん少なくなる一方だ。そのうちに依頼だって一件も来なくなるかもしれない。もしこの締め切りを落としてしまったら、この案件だってどうなるかわからない。  いったん思考がマイナス側にスイッチが入ると、どんどん深みにはまるのは立夏の悪い癖だ。無理に笑顔を作ってバッグの中を手探る。 「そろそろお暇しないと……ジュースとジュレ、とても美味しかったです」 「まだ外は暑いですし、もう少し休んでいかれた方がいいですよ。暑さのせいか、今日はお客さんも来ませんし」 「でも、これ以上お邪魔しても迷惑になりますし、お代もちゃんと払います」 「お代なんていいですよ」 「そんなわけには……あっ」 「どうかしましたか?」 「すみません……お財布、家に置いてきちゃったみたいです」  立夏は項垂れた。とことん今日はついてない。 「そんなこと気にしな――」 「ぼっちゃん! 今日こそはうんと言ってもらいますよ!」  司朗の言葉を遮るように、勢いよくドアが開いた。  あまりの勢いで、ドアベルが激しく前後にガランガランと揺れている。  ドアを突き破りそうな勢いで入ってきたのは立夏と同年代くらいの男性だった。髪をオールバックに撫でつけ、薄いブルーのレンズのサングラスをかけている。着ているのは派手な花柄のアロハシャツだ。 「これ以上のいい話はそうそうないんですからね! さあ、この中からお相手を選んでください!」  いったいどこから現れたのか、汗だくの腕には紙袋を抱えていた。中には四角い厚紙の束が入っている。 「臼井、お客さまの前で失礼だよ」  それまでの柔和な様子が嘘のように冷ややかな口調で司朗が言った。  ぎょっとする立夏にようやく気付いたようで、臼井と呼ばれた男性はぺこりと会釈して頭を掻いた。 「おっと。これは失礼を」 「あ、あの……わたしはそろそろお暇--」 「いいえ、立夏さん。このままここにいてください。ちょうどいい機会だから臼井にも紹介するよ」 「は? 紹介、ですか?」 「え……?」 「え……?」 「臼井、こちらの方は藤原立夏さん」  いきなり名を呼ばれ、反射的に立ち上がる。ぺこりと頭を下げた。  つられて臼井も深々と礼をした。 「ふ、藤原立夏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」 「臼井といいます。ぼっちゃんの下で働かせてもらっておりやす」 「立夏さんはぼくの婚約者なんです」 「「はあ!?」」  きれいに重なった声はもちろん臼井と立夏のものだ。 「ちょ、ちょっと待ってくださいよぼっちゃん! 婚約者だなんて、そんなの今まで一言も――」 「そ、そうよ」 「だから今日、こうして紹介しただろう。さあ、さっさと帰って母さんたちに伝えてくれ。司朗には婚約者がいるから、いくらお見合い相手を探してきても無駄だってね」 「あ、あの司朗く……」 「ちょ、そんなぼっちゃん! おれがおかみさんに絞られちゃいますよ! ぼっちゃーん!」  司朗は叫び続ける臼井をむりやりドアの外に追い出し、ご丁寧にプレートを『準備中』にしてカーテンを引き、鍵までかけてしまう。  司朗は疲れた顔で小上がりに腰を下ろし、微動だにしない。  しばらくはドアの外で捨てられた犬のような臼井の叫び声が聞こえていたが、司朗の気が変わることはないとわかったのか、やがて静かになった。  あまりのことに、立夏の頭痛はすっかり引っ込んでしまっている。  呆然と立ち尽くしたまま、立夏は司朗を見下ろした。 「司朗……くん?」 「お見苦しいところを、お見せしました」  弱々しく微笑む司朗が痛々しくて、ぐっと立夏は言葉を飲みこんだ。 「えっと……」 「ぼくの家は昔ながらの仕事を営んでいるせいか少々古風でしてね。いつまで経ってもぼくが身を固めずにふらふらしていると思って、お見合いしろってうるさいんです。男は結婚してこそ一人前だと考えているんですよ」  顔にかかる前髪をかき上げながら、司朗は片膝を抱えた。  なんだ、そういうことか。  ほんの少しだけ残念に思う自分に、立夏は内心で苦笑した。  お見合い攻勢をかわす材料に、たまたまこの場にいた自分が使われただけにすぎないのだ。そうでなければ、こんな若くて見た目も家柄も(たぶん)よさそうな青年が、立夏のことを婚約者になんて口にするはずがない。 「突然、婚約者だなんて言ってすみません。驚きましたよね」 「わたしは別に気にしないけど……司朗くん、困ってたんでしょ? でも、今日初めて会ったばっかりなんだし、そもそもわたしは三十代だし……きっとその場しのぎの冗談だとすら思ってもらえないよ」 「どうしてですか?」  あまりにきょとんと見つめられるから、立夏は言葉を失った。  どうもこうも、今言った以上の理由はないではないか。 「どうしてって……」  司朗の家庭のことは知らないが、いまどき「ぼっちゃん」なんて呼ばれる身分の人間を立夏は初めて目の当たりにした。さきほど、司朗は作家のことを珍しがったが、ぼっちゃん呼びされる人間の方がきっと希少種だ。 「そうだ。じゃあこうしませんか? しばらくぼくの婚約者のふりをしてここで一緒に暮らしてみませんか?」 「はあ!? ど、どうしてあたしがそんなこと」 「だって、立夏さんはおうちに帰りたくないんでしょ? でも締め切りがあるからお仕事をしなくちゃいけない。さっき倒れたとき、バッグが重かったです。ノートパソコンを持ってきてますよね?」  たしかにその通りだ。ワーカホリックなきらいのある立夏は、どこへゆくにもノートパソコンを肌身離さず持ってゆく癖がある。 「それにここなら山里で朝晩はかなり涼しいですから、きっと集中できますよ」  それはかなり魅力的だ。 「ここはもともと祖母が暮らしていた古民家を改修したので、部屋はたくさんありますから気にしないでください」  独身男女が同居することは気にするんだけど……そこはスルーですか。 「ぼくとしては宿代も食費もタダで結構なのですが、もし立夏さんが気にされるのでしたらお店のバイト店員ということにしてもいいですよ。お店を手伝っていただくのは正午から十七時まで。食事はまかないとしてお出しします。それならいいでしょう?」 「でも、わたしなんかよりもっと婚約者として説得力のある人がいるんじゃない?」 「そこはやっぱり、ぼくも実際にお話しして素敵だなって思った方にお願いしたいですし。何より立夏さんは地元の方ですしね。これ以上の説得力はありませんよ」 「そんな、野菜の契約農家みたいな感覚で言われても……」 「さすが作家さん、うまいこと言いますね。これからよろしくお願いしますね」  立夏の返事を待たずに、司朗はさわやかさ満点の笑顔を見せたのだった。
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