彼女は傘をささない

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昨日から降り続ける雨音が、日曜日のぼろアパートに響いている。 東京の空はどんよりと曇り、梅雨真っ只中の世間はどこかしんみりとしていた。 上京して3ヶ月。 大学の授業とアルバイトに追われ、息をつく暇もなかったこの何ヶ月かであった。 久々の休みも何をしていいかわからず、僕はコンビニで買ったビニール傘を片手に、ふらふらと散歩をすることにした。 雨の日は嫌いだ。 じめじめするし、みんな早足だし。暗いし。 良いことなんてない。 そんな日にわざわざ散歩をしに行こうと思ったのは、少しでも誰かの温かさを感じたかったからだと思う。 この場所は何もかもが別世界のようだった。やけに高い野菜、遠い遠い青い空、見渡す限りの鼠色、その中をまさに鼠のように足早に這い回るスーツたち。 東京に来れば自由になれるという僕の幻想をこの3ヶ月は跡形もなく壊していった。 でもまだまだ僕はこの街を知らないんじゃないか。どこかに素晴らしいものが転がっているんじゃないか。 という淡い期待もワンルームのどこかに残っている。 とりあえず家を出て30分ほどあてもなく歩いた。 相変わらず人や車がせっせと働いており、雨も合わさっていつもより忙しなく感じた。 みんな下を向いてどこかへ向かって行く。 僕のことなんて見えていない。 傘の色も暗く、まるでモノクロの世界に迷い込んだようだった。 やっぱり外なんて出るんじゃなかったと、東京のいつも通りの風景を横目にただただ歩き続けた。 程なく、小さな公園がみえた。 屋根のついたベンチもあるし、少し休憩しよう。疲れた。 こんな雨の日に誰も遊ばないだろう。 そう思い公園へと歩を進めた。 大きな花壇に色とりどりの花が咲く、とても明るい色の公園であった。 一面芝生で覆われ、たくさんの遊具がある。 ああ、ブランコなんか懐かしいなぁ …? 女の子がいる。ブランコに。中学生ぐらいの。 傘はさしていない。丈の短い黄色のポンチョを着ている。 こんな雨の中1人で遊ぶなんて、東京というのはついに人までおかしくなってしまうのか。 少女と目が合ったような気がして僕は踵を返した。 「お兄さん!待ってよ!」 ああ、最悪だ。呼び止められてしまった。 「私がいたから帰ろうとしたんでしょ?気にしないから、いていいよ!」 いや気にするのは僕なんだが。 「ねぇー!!お兄さーーーーん!!」 これ以上少女に叫ばれたら、近隣住民に通報されかねない。僕が。 はぁ とため息をつき、ブランコの隣のベンチに座った。 「お兄さんは遊ばないの?」 「僕は休憩しに来ただけだよ。それに雨なんだから普通は家で遊ぶもんだろ。なんで外にいるんだ?」 少女がにこっと笑った。 「だって雨なんだから、外で遊ばなきゃ!」 何を言っているんだこの子は。ますます訳が分からない。 その後も少女は1人で、滑り台やジャングルジムで遊んだ。 雨で灰色の世界の中、少女は誰よりも楽しそうにしていた。 でもどうしてわざわざ雨の中遊んでいるのか、どうして1人なのか、僕には知らないことが多すぎた。 少しして、疲れたのかポンチョを脱ぎ僕の隣に座ってきた。 近くで見て気づいたが、腰まで真っ黒な髪を伸ばし、陶器のように肌が白く、くりっとした大きな瞳を持っている。 なんとも可愛らしい少女だ。 「ふぅ〜 疲れちゃった。ねぇ、お兄さんずっと座ってるなんてもったいないよ。遊ぼ?」 「えー…それよりもさ、お家の人心配してるんじゃない?こんな雨の中1人で。」 「あー家ならそこだよ。ここなら遊んでもいいよーってお母さんも言ってくれてるの」 足をばたばたさせてなんともご機嫌な様子だ。 「今日の空は昨日よりちょっと明るいかも。雲もふかふかしてる」 つられて僕も空を見上げた。 雨の日の空なんて特に気にしたことなかった。傘で空は見えないし、雨は煩わしい。 「ねぇ、雨好きなの?」 「うん!大好き!お兄さんは嫌い?」 「そう、だな…」 いつまでもハイテンション話しかけてくる少女に、少しもやっとしてきた。 「じゃあさ、好きになれるように遊ぼうよ!ほら、ブランコとかさ、風で雨がぶわぁってなって楽しいよ!」 「なぁ、いいかげんにしてくれよ。好きになんかなれるはずないだろ?やっぱりおまえ」 変だな と言いかけて口を閉じた。 こんな少女に日々の鬱憤をぶつけて何になる。 しばらくの沈黙に雨の音が流れる。 「私ね、晴れの日にこうやって外で遊べないの。」 「…え?」 突然口を開いた少女に、素っ頓狂な返事をしてしまった。 「変でしょ?そういう病気でね。だから雨の日に遊ぶんだけど、誰も公園なんか来ないから、今日はお兄さん来てくれて嬉しかったんだ。」 困ったように少女が笑った。 なんて返せばいいかわからなかった。 「私は青空の下を自由に歩けないから、こうやって空の下にいるんだって感じられる雨の日が大好き。 空が隠れちゃうから傘もささない。 灰色の空が毎日違う色なのも、真っ白じゃない雲があるのも、雨に濡れた花が綺麗なのも、私は知ってる。誰よりも知ってるつもり。 雨って嫌なことばっかりじゃないんだよ?」 少し寂しそうに少女が笑って、1粒の涙が頬を伝った。 少しの静寂。 いろんな感情が込み上げてきて、どうしたらいいのかわからなかった。 この子は僕が来たことが本当に嬉しかったんだ。 今まで1人、雨の中をずっと生きてきたんだ。 それなのに… 僕は少女の手をとって雨の中へ駆け出した。 「なんだ、やっぱりお兄さんも遊びたかったんでしょ!」 手を引かれてにこっと笑った少女も雨の中へ飛び出した。 違う、遊びたかった訳じゃない。でもこのままこの子を1人で雨の中に閉じ込めるのは、絶対ダメなんだと心が叫んだ。零れた1粒に、これまでどれだけいろんなことを我慢してきたのかを感じてしまった。 きっと名前も知らないただのお兄さんだから、もう会わないような人だから、彼女は僕に話してくれたんだろう。 そのまま手を繋いで、公園の中を走った。 雨の中を走るのは案外気持ちが良くて、ずっと溜まっていた心の淀みまでゆるやかに溶かしていく。 ここは灰色の世界なんかじゃない。 雨に反射してたくさんのものが輝いている。 それから2人でブランコに乗って、ばかみたいにはしゃいだ。 「ブランコに乗ってると、空に手が届きそうだね!」 少女が楽しそうに笑っている。 雨は止み、空が少しずつ明るくなっていた。 「私そろそろ帰らなくちゃ! ありがとうお兄さん 雨の日はいつでもここにいるからね!」 「こちらこそ、ありがとう 雨、好きになれた気がするよ」 ばいばいと手を振り、お互い背を向け歩き出した。 少し歩いて見上げた空には7色の虹が輝いている。 次雨が降ったら、その時は少女の名前を聞いてみよう。
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