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魚の小骨なのよねえ、と啓子が呟くと、ちょうど冷蔵庫から牛乳を取り出した賢一は怪訝そうに振り返った。
「なに? 母さん」
「だから、魚の小骨なのよ。喉に引っかかって取れない感じ。今ちょうどそんな感じなの」
「だから何が?」
「どうしても思い出せないのよねえ、何だったか」
「ボケ?」
「違うわよ、あたしまだ49よ」
「40代でボケはじめるのも珍しくないってテレビで言ってたぜ」
「えっ本当?」
「テキトー。で、何が思い出せないんだよ」
賢一は牛乳パックを片手に冷蔵庫の戸を閉め、そのまま食器棚からマグカップを器用に取り出す。丸々とした肉がついた息子の背中を眺めながら啓子は食堂のテーブルに肘をつき、頬杖をつく。そしてため息交じりに話し始めた。
「あのね、あたしがまだ小学生くらいの時だったかなあ。近所の家にご夫婦で暮らしてる家があって。そこは子どもがいらっしゃらなかったんだけど、たいそう仲が良くってねえ。とっても優しくて、あたしは良くそこのおうちに遊びに行ってたのよ。たしかあたしの母と、そこのおば様が付き合いがあったご縁だったかしら。
あたしが遊びに行くと、おば様はいつもニコニコ笑顔で出迎えてくれて、家に上げてくれて、お菓子をごちそうになったの。どれもとってもおいしくて。確か、あそこの家はご主人が貿易商をやっていたのだったかしら、昔じゃなかなか食べられないお菓子がいっぱい出てねえ、とってもお金持ちだなあっていつも思ってたのよ。その中でも一番忘れられないのが、あのお菓子なの」
「どんな?」
相変わらず何を考えているかよく分かる渋い顔でマグカップと牛乳パックを持った賢一が啓子の対面に座り、続きを促す。啓子は自分の話が長いのは分かっていた。それでも要点を絞って話そうとしてもなんとなくきまり悪くて、ついつい色んな事を付け足してしまうのだ。
「黄色くて、四角いのよ。ケーキだったとは思うんだけどクリームはついてなかった気がするわ。素朴な甘さでね、不思議な食感だったの。ケーキってスポンジがふわふわだったり、トロってクリームがとろけたりするじゃない? でもあのお菓子は、なんて言ったらいいのかしら、本当に不思議。柔らかいんだけどけっこうしっかりしてて、こう、そうそう、もちもちしてたのよ。ケーキが」
「はあ」
「それでね、間に甘いのが挟まってるの。それがとってもおいしくてねえ、どんなお菓子? っておば様に聞いたんだけど、おば様は……なんて言ったかしら。もう全然覚えていないの」
「ケーキねえ。どんな感じ?」
息子が携帯電話をどこからか取り出して啓子に聞く。ううん、と啓子は唸る。
「だからぁ、黄色いの。四角で、クリームもなんにもついてない。あ、バターの風味がとってもおいしくて、そうそう思い出したわ。リンゴよ。リンゴが中に入ってたの。それがシャリシャリしてとってもおいしかったのよぉ」
「へー。リンゴ、ねえ」
言いながら賢一は自身の電話の画面を何度かタップする。近頃は便利だと啓子は思う。手のひらサイズの機械ですぐに世界中の知識を一望できる。名前の通り賢く育った自分の子どもの助力にならないかと、啓子は自身の記憶の糸をたぐり、キーワードを導きだそうとする。
「そうねえ、横文字のお菓子だった気がするわ。透明の綺麗なガラスのお皿に、金色の小さなフォークが付いてきて。おば様の家で出るお菓子はいっつもそんなオシャレな食器で出されたのよ。紅茶もよく分からない英語の缶に入った、ティーバッグじゃない、ちゃんとした茶葉で淹れられていたわ。おば様自らね。それがとっても様になっててねえ。それでね、ケーキなんだけど、四角で何か模様が」
「母さんちょっと黙ってて。検索してるから」
にべもない態度に啓子は若干不満を覚える。こういうところだけ父親に似てしまっているんだから。せめてルックスくらいは彼のDNAを参考にして欲しかった。
親戚からよく、並ぶと瓜二つねえと笑われる丸顔で一重まぶたの息子の眉が上がる。
「お、出た出た、えーと」
「何なに?」
だがすぐに、あっ、と声を上げ、賢一が力なくうなだれる。
「……充電切れた」
「あらら」
「後で検索しとくわ」
「別にすぐじゃなくて構わないわよ。命に係わることじゃないし」
そう言ってやってもすっきりしないのか、賢一は口をへし曲げ、マグカップに牛乳を淹れる。
「てかさー、そのおばちゃんに聞けばいんじゃね?」
「それがねえ、おば様音信不通になっちゃって。けっこう昔に。いきなり家に誰もいなくなっちゃって、がっかりしたわあ」
ふーん、と興味なさげに返す息子に啓子は、あたしにも牛乳ちょうだいとなんとなく催促する。この日はそれで終わった。
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