prologue.

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 あの日は月が綺麗だった。  霧が晴れて普段薄暗い路地が煌々と照らされていた。  おれはその時の憂鬱な気持ちが洗われるように感じて、ずっと空を見上げて歩いていたんだ。  だから、あいつがいつそこに現れていたのか、さっぱり気づかなかった。  ふと視線を戻せば、前方に誰かがいた。  ちょうどこの狭い路地が切れて大通りに出るそんな場所に。  まだ普及して間もない真新しいガス灯にもたれて、月明かりと人工の灯りとに照らされた男が立っていた。  おれは首を傾げた。  その男は全身真っ黒な服で髪だけが金色に輝いている。俯いていたせいで灯りの陰になり表情がよくわからなかったが、見栄えの良さそうな人に見えた。 (待ち合わせ、やろか……けどもう時間えらい遅いし、こんな時間に女の人呼び出したりしたらまずいんちゃうか?)  おれは余計な勘ぐりをしながら歩みを止めることなく近づいて行った。  あの大通りを突っ切らないと自分の家に帰れないのだから仕方ない。 (あんまりジロジロ見たら失礼やし、知らん顔して通り過ぎよ)  そう思って少し歩調を速め、男の前を通り過ぎようとした、その時。 「あ……」  小さな呟きとともに男が顔を上げる気配を感じた。  おれは思わず振り返ってしまった。  自分に向かって声をかけたかなんてわからないだろうに、もし何か面倒なことに巻き込まれでもしたらと考えて、さっさと立ち去ってしまえばよかったのだ。  近頃はかなり物騒になっていて男であろうと夜中の一人歩きは危険だと言われているのだ。理解しがたい猟奇事件や組織的な窃盗団が横行しているというのだから、迂闊に関わってはいけない。  そう思ってすぐさま身を翻そうと身体に指令を出していたはずだった。  でも気づけば眼の前に金色の髪と、首に鋭い痛み。  声も出せず息さえ止まったような一瞬の空白。 「ごめん……痛かった?」  覗き込んでくるのは……赤い、眼。  恐怖を感じて思わず身体を引いたおれを、相手は肩を掴んだまま逃さなかった。  その腕を払おうとして瞬きしたら、赤い眼がどこにもなかった。澄んだ碧い瞳が困惑した表情を見せていた。 「大丈夫か? 驚かせて悪かった」 「な、んや、いったい……今の」  おれはやっと先ほどの痛みを思い出して首筋に手を当てた。ぬるっとした感触に手のひらを見る。 「血……?」 「ごめん。びっくりして先に咬みついちゃった。でもちょっとだけだから。身体には何の影響もないと思うよ」  淡く微笑みながら言う相手の言葉の意味がわからず、おれは眉をひそめた。 「なにやってん? おまえ」 「ちょこっと血を吸った」 「……は?」 「だから、血をね、ちょっとだけ吸ったの」  人差し指を唇に当てて相手は平然とそんなことを言った。  おれはきっとパニックに陥っていたんだと思う。  血を吸う行為にどういう意味があり、そんなことをする人間は普通いないし、いるとしたらそれはまともな人間ではないことを理解するより先に、勝手に不意打ちでやってくれたことに対し猛烈な怒りを感じていたのだった。 「なに勝手なことしくさってんねん! いきなり咬んだら痛いやろがっ!」  論点がずれているおれの怒鳴り声に相手は眼をまん丸に見開いて絶句した。  睨みつけているおれに我に返った奴は小さく笑んでこう言った。 「こんなに美味くて面白い人間は初めてだ」と。
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