2-2-6 鮮卑拓跋部(北魏)

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2-2-6 鮮卑拓跋部(北魏)

・鮮卑拓跋部 - 315 拓跋力微(たくばつりきび) 174 - 277 よくわからないレベルでのご長寿さま。魏書で具体的事跡が載るはじめの拓跋部大人である。卓越した賢人徳者豪傑として書かれている。匈奴の蹋頓(とうとん)が短期的利益に目がくらんで魏に背き、滅ぼされたことを踏まえ、魏とは友好関係を結ぶべきと判断、太子の拓跋砂漠汗(たくばつさばくかん)を使者として遣わせる。友好関係は魏が晋に代わっても続いたが、拓跋部を脅威と見る衛瓘(えいかん)が離間工作を実施、砂漠汗と拓跋部の仲を裂いた。老耄した力微はこの策略に気付かず砂漠汗を殺してしまい、甚だ悔やんだという。その後砂漠汗は名誉を回復された。 拓跋悉鹿(たくばつこつろく) ? - 286 拓跋力微の息子。衛瓘の離間工作によって拓跋部内が大きく乱され、その収拾に追われた。この時拓跋部は大きく勢力を削減されるに至っていた。 拓跋綽(たくばつしゃく) ? - 293 離間工作の影響がその後どうなったかは特に語られていないが、勢力回復に尽力はしていたようだ。匈奴の宇文部と通婚するなど、周辺諸勢力との友諠を図った形跡がある。ところで宇文部は鮮卑ではなかったのだろうか。この辺りのあやふやさは、おそらく細かく考えたら負けなのだろう。 拓跋弗(たくばつふつ) ? - 294 拓跋砂漠汗の息子。偉人ではあったそうだが、即位後即死亡。 拓跋禄官(たくばつろくかん) ? - 307 拓跋力微の息子。大人位を継ぐと内政の拡充に努めた。また 304 年に劉淵が漢王を名乗り勢力を拡大。これに対抗すべく司馬騰(しばとう)が拓跋部への援軍を要請した。この要請を受け漢軍を大いに破った、とされているが、晋書にこの記事が全く載っていないのが胡散臭すぎて素敵である。とは言え資治通鑑には載っている。この内容を秘匿するべき理由がなぜ晋書にあるのかは気になるところであるが、元々晋書は拓跋に関する話そのものを避けている印象もあるので仕方がないのやもしれぬ。 ・代 315 - 376 初代 拓跋猗盧(たくばついろ) ? - 316 拓跋砂漠汗の次男。劉琨との深い友好関係を築いている。また劉琨を通じて晋との友好関係をさらに深めた。その結果が晋よりの代王の爵位進呈に繋がった。代の建国である。こうして国の基礎を作り上げた拓跋猗盧であったが、長男の拓跋六脩(たくばつろくしゅう)を軽んじ、末子の拓跋比延(たくばつひえん)に後を継がせようと思っていた。そのため拓跋六脩に憎まれ、殺された。また拓跋六脩は拓跋比延も殺した。 二代目 拓跋普根(たくばつふこん) ? - 316 拓跋猗盧の甥。拓跋猗盧殺害事件が起こった時には国境付近を守護していたが、報を聞くや即王宮に馳せ参じ、拓跋六脩を攻め滅ぼした。その果断さにより二代目の代王に推戴された。しかし代王暗殺事件の波紋は大きく、国内に内乱が頻発。一部の部民は劉琨に帰属した。そのような混乱のさなか拓跋普根は即位後わずか一カ月で死亡した。拓跋普根の息子が次の王に据えられたが、その名前は残っていない。そして彼も、即位後まもなく死んだ。 四代目 拓跋鬱律(たくばつうつりつ) ? - 321  拓跋弗の息子。皇統序列がちぐはぐな辺りに、当時の代の混乱ぶりがうかがえる。匈奴鉄弗部の劉虎(りゅうこ)烏孫(うそん)などを攻略、代の勢力を強壮なものとした。劉曜や石勒も代とは何とか友好関係を築こうとしたが、すべて棄却したという。名君とも呼ばれるべき存在だが、それゆえに拓跋普根の母・惟氏に疎まれ、殺された。 五代目 拓跋賀傉(たくばつがじょく) ? - 325 惟氏によって立てられた、拓跋普根の弟。ただし代王になった当時親政できる年齢ではなかったという事なので、兄とはかなり年が離れていそうではある。親政を開始してもその号令に従うものは極めて少なく、憂悶の内に死んだ。弟の拓跋紇那(たくばつこつな)がその後を継いだ。 六代目、七代目 拓跋紇那、拓跋翳槐(たくばつえいかい) 拓跋紇那の即位後まもなく石虎が侵攻してきた。迎撃こそしたものの形勢不利と判断、後退の判断を下す。また拓跋鬱律の息子である拓跋翳槐が拓跋紇那に攻撃を仕掛ける。拓跋紇那は宇文部へ亡命。以降拓跋紇那と拓跋翳槐はしばしば対立し、お互いに代王の座を奪い合う争いを繰り広げる。最終的な勝者は拓跋翳槐だったが、この政争にほぼ精力を使い果たしたのか、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん)を後継者に指名すると、間もなく死亡した。 八代目 拓跋什翼犍 318 - 376 拓跋鬱律の息子、拓跋翳槐の弟。拓跋鬱律の殺害事件以降内紛を繰り返した代は衰運の中にあったが、拓跋什翼犍の治世で大幅に勢いを取り返す。前燕との修好に努め、姻戚関係も結ぶ。一方、劉虎以来しばしば対立してきた匈奴鉄弗部は劉衛辰の代に至って前秦と結んだ。苻堅率いる前秦の軍勢を迎撃しようにも、この頃拓跋什翼犍は重い病を患っており、この危機に対応できる将帥は代にはいなかった。一旦は前秦が軍を引くことで小康状態を取り戻しこそしたものの、代建国以来の最大の危地にあたり、拓跋氏内にも亀裂が入っていた。長庶子の拓跋寔君(たくばつしょくくん)が己が立場を危ぶみ、拓跋什翼犍及びその弟らを殺害。英主を失った代は、その後の前秦の攻撃に為すすべもなく攻め滅ぼされた。 なお拓跋寔君であるが、苻堅によって車裂きの刑に処せられている。とかく苻堅はこの手の裏切り行為に乗じつつも裏切り内通してきた者に対しては憎悪にも近しい処断を下すのが恐ろしくてならぬ。行き過ぎた仁者ポーズと言う感じでマッドさがにじみ出ていてよい。 ・北魏 386( - 442 華北統一) 先代 拓跋寔(たくばつしょく) ? - 371 拓跋什翼犍の息子。拓跋寔君とは別人と言うこの厄介さ。なおこの人は宋書には存在していない(道武帝は拓跋什翼犍の息子となっている)。部民の反乱に際して父を庇い、わき腹に矢傷を負った。その傷がもとで夭折したという。 初代 道武帝(拓跋珪(たくばつけい)) 371 - 409  拓跋寔の子。鮮卑賀蘭部の賀野干(がやかん)の庇護を受けて育った。また匈奴独孤部の劉庫仁(りゅうこじん)の後見を得て 386 年に代王を自称、同年には国号を魏に改めた。以降柔然(じゅうぜん)庫莫奚(こもけい)高車(こうしゃ)などを次々と下し、395 年には後燕を、396 年には匈奴鉄弗部の劉衛辰(りゅうえいしん)を、402年には後秦を大いに破り、華北での覇を唱えるに至るが、この頃より精神に異常をきたす。多くの無実の者を手に掛けるようになり、果てには母親すら手に掛けかねない勢いであったため、次男の拓跋紹(たくばつしょう)がクーデターを敢行、道武帝を殺害した。 二代目 明元帝(拓跋嗣(たくばつし)) 392 - 423 道武帝の嫡子。クーデターを起こした拓跋紹を即捕縛、処断。その後皇帝位についたが、ここで国が大いに乱れたという話は聞かれない。過去の事例からすれば大いに内紛が起こってもおかしくはないにもかかわらず、である。それだけ晩年の道武帝の行動が異常であったのだろうか、あるいは。国内の統治機構の整備、外では華北残余勢力や劉裕との対決など激務に追われる中死んだ。 三代目 太武帝(拓跋燾(たくばつとう)) 408 - 452 明元帝の嫡子。即位するや柔然(じゅうぜん)、夏を攻め、また北燕、北涼を滅ぼし、苻堅以来の華北統一を実現させた。英雄王と呼ぶべき存在ではあるが、その苛烈な性分により、我をはじめとした多くの重臣を殺害している。その因果が巡り巡ったか、宦官の宗愛(そうあい)によって殺されるという、英雄王らしからぬ惨めな最期を遂げている。 しかし道武帝以来推し進められていた漢族式統治機構の確立の賜物か、太武帝の不慮の死によっても北魏は致命的な動揺を受けるには至らず、むしろ混乱を収束させた馮太后(ふうたいごう)と、その孫である孝文帝(拓跋宏(たくばつこう))によって北魏は最盛期を迎えることになる。
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