2-3 人物伝 顕名群雄宰相

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2-3 人物伝 顕名群雄宰相

・顕名 (皇帝以外で、特に重要な動きをした人物) 王導(おうどう) 東晋 クソ南朝貴族の諸悪の根源である。先祖を辿ると戦国秦の大将軍王翦(おうせん)がいる。超一級の血統の生まれで、晋朝にあっては権謀術数を操り旧呉土着の豪族層を骨抜きし、東晋帝国の基盤を築いた。結果として江南の地は五胡勢力の手に落ちずにすんだわけであるが、滅ぼされたほうの旧呉系豪族にとってはあまり関係のない話でもあろう。この王導以降、王導の家門である琅邪王氏はずっと腐れ南朝貴族社会のトップであり続ける。故にこの男こそ我ら北魏から見ればクソ南朝の親玉、と言うしかないのである。 桓温(かんおん) 東晋 東晋中盤の主役である。傑出した文武の才でもって宮中を席巻、ひとときは旧都洛陽の回復まで果たす。それにしても、東晋についてはこの人を知るだけで父親が蘇峻(そしゅん)の乱で敗死していたり息子は東晋末の大簒奪者であったりと、東晋の割と全てをフォローできる勢いである。世説新語中でもトップクラスのエピソード採用数。そんな彼を逆賊枠に押し込めている晋書の構成はなかなかにきな臭くてよろしい。確かに禅譲を迫ろうとはしていたので反逆者と言えば反逆者なのだが。 慕容恪(ぼようかく) 前燕 慕容皝(ぼようこう)の息子、慕容儁(ぼようしゅん)の弟。慕容儁より慕容暐(ぼようい)の後見を託された。宰相というよりは大将軍と呼ぶべきやも知れぬ。冉閔を攻め滅ぼすという特一級の武功を挙げている。かれの存命中には苻堅(ふけん)も桓温も迂闊に攻め入るを憚っていた、そうである。なお「燕を継いだ」「文武両道に長け」「割といい性格をしているくさい」慕容垂(ぼようすい)の、前燕宮中における味方代表である。慕容恪自身がすぐれた人物であることに疑いを差し挟む余地はないが、慕容垂オメー案外前燕代の歴史編纂したりとかもしてたんじゃねえの疑惑により、経歴が色々ときな臭い。ちなみにこの記述は、いわゆるマエフリである。 王猛(おうもう) 前秦 王導と並ぶ五胡十六国時代の代表的宰相である。なお同じ姓だが王猛は北海郡の生まれなので、特に血縁らしい血縁はない。所謂偏屈、仕事の虫であり、誰に対しても遠慮すると言うことを知らぬ。それを笑って受け容れる苻堅に出会っていなければ、あっさりと殺されていたのではなかろうか。五胡十六国時代随一の主従と呼ばれる苻堅と王猛だが、くせ者同士がうっかり嵌まり合ったという印象がある。そして、それが見事な調和を産み出した。人と人との出会いの妙、と言う奴を感じずにはおれぬ。かれの死が淝水の大敗を招いたという美しき物語を紹介するのが五胡十六国時代初学者に向けての導入なのだが、まぁなんだ、申し訳ないが、アレは平成だな。 謝安(しゃあん) 東晋 淝水の戦いの舵取りを為した大功労者、と言う扱いである。ただしエピソードを読むと少々見栄っ張りの小者っぽい。例えば淝水勝利の速報を友人と碁を打っていたときに聞き、友人の前では「あぁ、うちの小倅が勝ったみたいですね」と澄まし顔でいたが、客が帰ったら狂喜乱舞して下駄の桁を折って、しかもそれに気付かなかった。また讒言により孝武帝に疎まれていたことがあったのだが、ある宴にて同僚が孝武にそのことを窘めてくれたのを見て「ちくしょう、なんだよお前……!」と感涙した。無論業績は業績で出色のものである。知れば知るほど面白い人物であるのは間違いがない。 ・群雄 禿髪(とくはつ)樹機能(じゅきのう) 西晋期胡族 西晋の天下統一事業に於ける、孫皓(そんこう)に並ぶ難敵の一。鮮卑であり、また「トクハツ」と「タクバツ」の音が存外近いので、もしやすると拓跋とは同族なのやも知れぬ。八王の乱以前の人なので本来紹介すべきではないのだが、ポスト淝水に於ける緒涼割拠の起点として抑えておくべきと判断、紹介する。禿髪樹機能に代表される秦州涼州の諸部族の蠢動を西晋~前涼~前秦が押さえ込んだが、淝水によって破裂、と言うのが後の緒涼国家群のプロローグなのである。 司馬越(しばえつ) 西晋 晋国オモシロ集団自殺「八王の乱」をその類い希な政治力にて勝ち残った。宰相枠に載せるべきなのやも知れぬが、懐帝司馬熾(しばし)と盛大にケンカ別れをしているので独立勢力扱いをした方が愉快であろう。それにしても、苦労して内輪もめを勝ち抜いた先でどんどん勢いを増す匈奴を相手にせねばならぬわ、しかもそちらにかかずらっていた矢先に飼い犬に尻を噛まれるわともなれば、それはもう心労で死んでも仕方あるまい。かれの死が、実質的に西晋の滅亡を確定させるのである。 慕容吐谷渾(ぼようとよくこん) 鮮卑慕容部 前燕を建てた慕容皝(ぼようこう)の伯父。東北の外れにて逼塞していた頃の慕容部から追放され、流れた先は何故か蜀の更に西。もう少し分かりやすく言うと、五胡十六国バトルマップの東北の隅から南西の外れまで流れている。意味が分からぬ。そんな吐谷渾の子らが建てた国吐谷渾は、南北朝はおろか、なんと隋唐の時代まで生き延びるのである。サバイブを勝利条件と見做すならば、吐谷渾こそが最終的な勝者とも言える。 王浚(おうしゅん) 西晋 趙漢石勒(せきろく)にとっては、最悪に近かった強敵である。三國志マニアに向けては「董卓(とうたく)周りで存在感を示す王允(おういん)の親族ですよ」となるのだが、この辺りは大人しく東晋に権勢を誇った太原王氏の係累である、と言ってしまった方が早いのやも知れぬ。名族の存在感は実に凄まじいな。鮮卑宇文部、段部らを上手く操り、東北地方での権勢をほしいままとしたが、石勒の偽装投降に騙され滅ぼされた。石勒の演技力を褒めるべきか、王浚の節穴を笑うべきか。この辺りは、如何に当時の常識を踏まえられたか、に掛かってくるのであろう。 劉琨(りゅうこん) 西晋 晋国属として鮮卑(せんぴ)拓跋(たくばつ)部と結び、劉淵(りゅうえん)と戦った。西晋崩壊後も勢力を保ち、戦いを継続する。後漢皇族の末裔、平時の能吏と割と主役キャラなのであるが、五胡十六国を代表する暴風雨たる石勒(せきろく)の前では噛ませ犬扱いにならざるを得なかった。ところで後に大いに石勒を悩ませる事になる武将、祖逖(そてき)と同室で寝ている(意味深)エピソードがある。いかがですか。 劉衛辰(りゅうえいしん) 匈奴鉄弗部 赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)の父。アレの父なので割とアレである。祖父の劉虎(りゅうこ)以来拓跋とは従反定まらぬ微妙な関係を続けた。また苻堅(ふけん)に奴隷を貢いだら「人権無視だ! お前は人の面被った獣だ!」と責め立てられたのでムカついて敵対した。代をそそのかして苻堅にケンカを売るも敗北、普通に臣属する。おい。その後度々代にケンカを売っては負け、なんとか滅ぼしたところで苻堅からは軽く扱われたのでキレて反逆。実にロックである。こう言う厄種は適当に手懐けて強敵の前に放り込んでおくが吉なのである。故に西燕、後秦からはアンチ北魏の引っ掻き回し担当を任命され、満を持して北魏相手に無邪気に暴れ回っていたら負けて殺された。ロックンロール。 劉庫仁(りゅうこじん) 匈奴独孤部 匈奴独孤部(きょうどどっこぶ)大人。鉄弗部劉衛辰に引っ掻き回されていい迷惑を蒙られたお方、と言う印象でもある。もとは拓跋部にお仕えになっていた。だがその拓跋部に、劉衛辰の手引きで前秦が侵攻。ここで拓跋氏はいちど半壊する。この時劉庫仁殿は、流亡の身となった道武、及び道武の母上を匿われた。その後拓跋の旧領を劉衛辰と分け合うことになったのだが、劉庫仁どのの心意気に感じ入ったか、苻堅は劉庫仁どのを特に尊重。「俺のおかげで拓跋潰せたんだろ!」と切れる劉衛辰を返り討ちになされた。相当苻堅好みの人物であったようだし、また劉庫仁どのにとりても、苻堅は具合の良い君主であったようだ。後日オモシロ慕容の反乱にて殺されるまで、前秦への臣節を貫かれている。また一方では道武の庇護者としても尽力なされている。我らが北魏の大恩人と呼ぶべきお方である。赫連のアホと同じ匈奴とは到底思えぬでな…… ・宰相 劉宣(りゅうせん) 匈奴漢 劉淵(りゅうえん)の大叔父。一説では父なのではないか、とも。洛陽~鄴にあった劉淵の代わりに匈奴諸部の取り纏めを為し、また司馬穎(しばえい)よりの独立を説いた。独立までの劉淵の動向を支える影のキーパーソンと言える。「政権とはクーデターにて勝ち取るもの」的な趣のある匈奴の取り纏め役なのであるから、劉宣が弱い、などと言うことは決して有り得まい。度重なる劉淵への建言を見てもバランス感覚に秀でている。生まれた時期が時期であれば、この人が天下に覇を唱える、などと言ったことも有り得たのやも知れぬ。 陳元達(ちんげんたつ) 匈奴漢 参謀と言うよりは後世に言う諫義大夫が如き振る舞いである。劉淵の良き智の懐刀で、所謂軍略にはさほど関わっていなさそうである。息子の劉聡(りゅうそう)にも仕えたが劉淵と同じノリを強要したため疎まれた雰囲気がある。「おい元達、お前は俺のことを怖い怖い言うがな、正直俺からしてみりゃお前の方がよっぽど怖いぞ」と劉聡から面と向かって言われたりしている。劉聡は劉聡で「アル中でごめんね☆」などと臣下に放言するようなアレだが、一方の陳元達に柔軟性が欠けていたのも間違いあるまい。疎まれた末、自宅にて服毒自殺。 麹允(きくじゅう) 西晋 懐帝司馬熾を失い、事実上崩壊した西晋の最後の防衛線となったひとである。謀り、騙し討ちを得意とする。その策謀にてひとときは劉曜の軍勢を退けたりするものの、結局は自分が虚報に躍らされる羽目に陥り敗北。愍帝司馬鄴と共に捕まる。その後劉聡がなした司馬鄴への嫌がらせの数々に対し激怒、憤死。すると劉聡から「麹允、お前の忠烈ヤバいな(笑)」とばかりの諡号(節愍侯)が送られた。この辺りの記述は非常に簡素であり、劉聡の真意がどこにあったかは分からぬ。ただ、劉聡が懐帝愍帝を公衆の面前で奴隷扱いしたところから鑑みるに、麹允への諡号追贈も、相当にタチの悪い嫌がらせとみるのが順当であるよう思う。 張賓(ちょうひん) 後趙 これを申し上げると石勒ファンに失礼なのは承知なのだが、バカにハサミの使い方を見事に教えた人、と言う印象である。無論石勒自身は文盲とは言え非常に聡明な人物であるが、そのかれに漢人的統治機構をつくらしめたドラスティックな方向転換のすさまじさを語るには、どうしても極端な表現を用いずにおれぬのである。石勒とは「右候☆」「明公☆」と呼び合うほどの蜜月振りであったという。気が付くと敵軍をしばしば穴埋めしている石勒だが、張賓に限らず臣下ラブな側面もしばしば見せている。 游子遠(ゆうしえん) 前趙 劉曜にとっての陳元達、と言った装いの関係である。ただしもう少しダイレクト且つラディカルな関係で、しばしば劉曜に諫言しては投獄されている。その後他の臣下に諫められて「俺が悪かった、正直すまんかった」と釈放されるまでがワンセットである。よく愛想を尽かさず付き合ったものだ。ただし政権末期には消息をくらませているので、上手く逃げ延びたのやも知れぬ。まぁ殺されたのやも知れぬが。文武に渡り傑出した才を示していたが、そのようなかれが劉曜に忠義を尽くし続けた動機はなかなかにドラマを感じさせる物がある。 庾亮(ゆりょう) 東晋 庾氏は八王の乱勃発時、逸早く江南の地に疎開している。この一件を見るだけでも行動力実行力の高さはよく窺える。八王の乱収束後赴任してきた、のちの元帝司馬睿に大層気に入られ、姻戚を結ぶ。その後順調に権勢を伸ばし、一時は王導をもしのぐほどとなった。しかしそのやり口はあまりに苛烈であり、多くの者からの反感を買う。結果蘇峻の乱を招き、妹の庾文君(ゆぶんくん)を失った。庾亮は命からがら荊州に逃れ、陶侃(とうかん)に泣きつき、乱を平定してもらった。元々陶侃は庾亮の政策で痛い目に遭っていたから怨みを抱いていたのだが、実際にあったらあっさり籠絡されている。陶侃チョロいし庾亮怖い。以上をまとめると、蘇峻の乱を起こし、鎮めた人、となろうか。こう書くと、実に酷いマッチポンプである。  陶侃亡き後、陶侃の軍府を継承。更にその軍府は西府として、弟の庾翼を経て桓温へと引き継がれる。 李農(りのう) 後趙~冉魏 後趙の石虎(せきこ)から、冉魏の冉閔(ぜんびん)に掛けてをサポートした。まさに乱世の宰相といった出で立ちの人物である。ただし冉閔に殺された。石勒、石虎、冉閔の継承劇は普通に簒奪祭りであり、そこでいずれも枢要を握り続けているような人物を冉閔のような趣味:殺害人間が警戒せぬ筈もなかった。とは言え李農の如き運営力を失えば普通に国としての基盤が揺らぐ。あっさりと前燕に滅ぼされた冉魏であったが、さて、李農を殺さずにおけばどのような顛末を辿ったのだろう。……と妄想しようと思ったが、冉閔が李農を殺さぬ未来をまるで想像できぬ。諦めた。 尹緯(いんい) 後秦 前秦では栄達できなかったが、後秦朝でその才覚を花開かせ、宰相レベルの抜擢を受けた。苻堅が姚萇に捕まり、まさに殺されよう、と言うタイミングで初めて苻堅はまともに尹緯と話し、その才覚を知る。「君のような人物を重用できなきったのであれば、衰亡もやむなしだな」……というコメントは、さすがに盛っているだろうとも思うのだが。さてその才覚であるが、姚萇、姚興の二代をよく扶翼し、後秦を押しも押されぬ大国へと育て上げた。この手の伝説はできすぎているので、講談を打つのであればさておき、史実として眺めよう、と言うときには真っ先に棄却する方が良いようにも思う。がまぁ、面白ければ全てよし、でもある。 崔宏(さいこう) 後燕~北魏 我が父である。無論親族枠でねじ込んでいる、わけではない。ただし道武への参画は案外遅く、参合陂以後である。とは言え元々声望の高かった父であったから、参画後は即座に要職に上り詰めるのであった。国号「魏」も父の提唱が受け容れられたものである。道武亡き後の朝政を長孫嵩(ちょうそんこう)殿とともによく支え、次なる明元期の礎となった。 劉穆之(りゅうぼくし) 東晋(劉裕) 劉裕を支えた謀臣。同じ姓であるが普通に赤の他人である。謀臣とは言っても「お前は戦の駆け引きに口出しするな」と劉裕に言われていたりするので、張良(ちょうりょう)と言うよりは蕭何(しょうか)である。桓玄打倒、即ち劉裕がスターダムに乗ったところから合流。際立っていたのは決済能力及び人事。いくら強いとは言えただの武辺者であった劉裕を、東晋貴族が支持するよう計らったのは間違いなくかれの功績であろう。ただし晩年は貴族らに主導権を奪い取られていたようでもある。 王買徳(おうばいとく) 夏 赫連マジキチ勃勃に常に建設的献策を呈し、しかも特に仕置きを受けている形跡もない。実際に献策の内容を繙くとごくまともであり、それが却ってこの人のマッドさを裏打ちする。……と言いだすのは、さすがに陰謀論にも過ぎるであろうか。「あの赫連勃勃から全幅の信頼を受けていました」で全てを語れる気もしたが、それだとさすがに勃勃さんに頼りきりであるため、敢えて文字数を稼いでおいた次第である。 拓跋晃(たくばつこう) 北魏 我が主上、太武帝のはじめの皇太子である。夭折されたため皇阼を踏むことは叶わなかったが、かれが登極しておったら、……おや、あまり if の想起が叶わぬな。まァ結局のところ孝文帝もかれの血統である以上、かれが長生きしたところで六鎮の乱は起こっていたであろう。太武弑逆よりも前に薨去されているのだが、そこまでの治績にて太武より全幅の信頼を得ていた。さすがにべた褒めにも過ぎるので、幾分は夭折の皇太子に対する贔屓の引き倒し的要素も考慮に入れねばなるまい。また宦官宗愛(そうあい)による大逆の切っ掛けともなっており、太武弑逆周辺の政局図を占うにあたり、かれの死は非常に魅力的なファクターである、と言えよう。  ……主上、近辺にはおわさぬよな?
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